Naughty Kid 怒りの日

Anger is an energy, it really bloody is

Rise Avobe

ー1994年、遂に日本は崩壊した。

バブルという日本全国総馬鹿化したふざけた乱痴気騒ぎは終わりを告げ、戦後最大とも言える未曾有の危機が訪れた。

実際、バブル崩壊がいつ頃かはわからないが、オレが記憶する限り14歳のあの時、オレの足りない頭でもハッキリと認識できるほどこいつはヤバいって状況が、世間に不穏な空気が流れていることが肌で感じ取れた。

それが1994年だった。

バブルの恩恵なんぞ一ミリなかったうちにとっちゃ日本がいくら崩壊しようがさほど違いはなかった。

まあ、偉そうに踏ん反り返ってた金持ち達が一斉に頭を抱えてるなんてざまあみやがれって感じだったかもな。

 

一方でオレはヒトミちゃんのオーリーを見たあの日からスケボーがどうしても欲しくて暫くおとなしくし勉強やら部活に打ち込んでた。頑張りゃご褒美にありつけるかもしれないって淡い期待があったからな。

オレの周りであの”クールな板”を持っていなかったのはもはやオレとサカエくらいなもんですっかり置いてけぼりだった。

中二の時のオレの学力は最高潮で、信じられない話だが、先生からも三者面談でかなりいい高校にいけるんじゃないか?何て言われてたんだぜ。

ーよし、そろそろ交渉の頃合いか?

ある日オレは意を決してじじいに交渉してみた。

 

「じいちゃん、実はスケボーが欲しいんだよ。オレ頑張ったよな?悪さもしてねえし成績だって見てみろよ、あと少しでオール5だよ!こないだオレ、スピーチコンテストで優勝して賞状も貰ってきただろ?な?いいだろ?」

 

ーこの頃のオレの特技と言えば走ること、そして物を書くことだった。400メートル県大会で3位になったこともあったが、人生で初めて一番を取ったのは校内スピーチコンテストってやつだった。じじいのテレビ嫌いをヒントに、メディアを面白おかしく徹底的にこき下ろしたら自分でもビックリなんだが、どういうわけか表彰されちまったんだよ。内容は覚えてないが我ながらいい出来だった記憶がある。子供ながらの視点ってやつで描いたメディア論だったかな。ー

 

オレはああだこうだ言って当時のその手の雑誌、”ファインボーイズ”とか”boon”とかあんなのを見せて、こんな感じの服着てスケボーしてえとか何とか駄々をこねた。

 


じじいは即答で

「なんだこりやあ?お前アメリカのガキの真似なんか金使ってやるもんじゃねえぞ。」

 

「じいちゃん、これがトレンドってもんだよ。頼むから買ってくれよ!」

 

「なーにがトレンドだよ。周りに流されてないでてめえってものを持ってよ。」

ダメだこのじじい…

オレの好きな物なんて生まれてこれまで一度でも買ってくれたことねえんだよ。

またしてもオレの願いを聞き入れてくれなかった…散々オレを働かせといて褒美の一つもなしとはあんまりだ。

それでもオレは諦めなかったよ。

じじいも頑固だが、オレも負けじと頑固でしつこいんだよ。来る日も来る日もじじいと顔合わせる度にスケボー買ってくれよ!と交渉し続けた。

 

ー1週間を過ぎたころ、遂にじじいは折れた。

 

「そのスケボーってのはどこに売ってんだ?」

 

「東京だよ!じいちゃん!買ってくれんの?!」

 

遂に来たぜこの日が!

まさかこのじじいが頭を縦に振る日が来るとは!

 

ーいや…まてよ。

こいつは何かおかしくないか?あのじじいはどんな時でも物を買ってくれたことはなかったし、一度NOと言ったら一生、死ぬまで曲げねえようなじじいだぜ?こいつは裏があるに決まってるだろ?

 

案の定、予想は的中した…

しかもじじいの口から出た言葉は耳を疑うものだった。

 

「母さんが買ってくれるとさ。良かったな。

次の日曜、3人で東京に行くぞ…」

 

ーーーーーーー

 

母親とは三者面談以来、久々に顔を合わせた。ハッキリ言って気まずかったし、急に母親らしいことをしようとするこの悪魔が妙に気持ち悪かった。

3人で電車に揺れられること数十分、気まずい沈黙に耐えられなくなってじじいになんか喋れよ何て促されたのを覚えてる。

じじいもオレも沈黙ってやつが大嫌いだったから一人ででも喋り続けなきゃ気が済まない性格なんだが、このトリオは天地がひっくり返っても盛り上がることはないぜ。

母はじじいを嫌い、オレは母を嫌ってる。

はたから見たら人でも殺しに行くのか?ってくらいピリついてたはずだ。

 

じじいが口火を切って母に

 

「最近、働いてるんだって?」

 

母はそっけなく

「まーね。」

 

母は母で

「学校はどうなの?」

 

オレはそっけなく

「退屈だよ。」

 

とまあこんな具合で最悪の東京ツアーがスタートしたわけだが、オレはスケボーが買えるならどんなことでもしてやるって決意だったから、ろくに考えもせずにじじいの提案を受け入れた。じじいの目的は恐らくいい加減いがみ合いはこの辺にして、親子三代話し合おうじゃねえかってことだったと思う。

しかしまあ話し合うにしちゃオレ達の抱える問題はいささか根が深すぎた。

こいつが一生付いて回る軋轢なのはわかりきっていたことだが、じじい自身、文字通り”自分で蒔いたタネ”がこんな形で成長してしまうとは思ってもみなかったんだろうよ。

東京へ仲良く買い物すりゃ全て丸く収まるわきゃねえが、じじいはじじいなりに、母は母なりに自分の置かれた立場ってやつの再確認は少なくともあの豚小屋よりはできるはずだからな。

 

池袋についたオレ達は真っ先に目的のスケボーを買いに原宿へ向かうことにした。

じじいから言わせりゃ渋谷や原宿ってのはど田舎のイメージがあるらしく(50年代、60年代の頃はマジで田舎だったらしい)そんなとこに目当てのものが本当にあるのかってやたら半信半疑だった。

上野にもあるだろ?とじじいのホームタウンにやたら行きたがってうるせえのなんの。

じいさんよ、今は1950年代じゃねえんだよ。

エルビスが死んで何年になると思ってんだよ!

ーーーーーーー

 

ー  実際この頃の原宿は最高だった。

kawaiiカルチャー”なんてものはまだ存在せず、竹下通りはロンドンのカムデンタウンを模したテント村があってさ、80年代に大量にあったタレントショップが梅宮辰夫の店以外ぶっ潰れて、代わりに古着屋に様変わり。

田舎者をとっ捕まえてはバッタもんの服を買わせるっていう悪徳キャッチ連中が堂々と通りの真ん中でまるで門番みたいにいたりして笑えたな。

 

80年代は小綺麗なDCブランドで固める奴らがトレンドだったのが、90年代に入ってからストリートは一変した。

ニルヴァーナの世界的ヒット、グランジムーブメントの余波により改めてアメリカのストリートカルチャーが東京に押し寄せてきた。

ヴィンテージのリーバイスにネルシャツ、小汚いナイキのスエットやスニーカーに何万も出して買う奴だっていたんだぜ。

90年代は高級ブランドのセットアップで固めるより、汚ねえヴィンテージの古着が持て囃されたんだよ。

更に大人が弱体化した分、若者が主役になりつつあった。

バブル崩壊はストリートの転換期でもあり、街で彷徨くのは大学生から中高生と低年齢化していった。

 

当然の如くアメリカは西海岸のスケートカルチャーも改めて形を変えて日本に入ってきたってわけだ。今の若い連中もスケボーやってる奴たまに見かけるが、昔とは明らかに違うね。

当時は音楽カルチャーとストリートはいつも連動してた。

スケボーやってる奴でくだらねえJ-popを聴いてる奴なんてマジで一人もいなかったね。

つまりさ、西海岸のハードコア御三家、Black Flag、Circle Jerks、Gang greenなんかは当然みんなおさえてる様な連中がスケボーやるわけ。

意味もわからずスーサイダルのキャップをかぶってる奴もいなかった。

オレ達田舎者の間じゃまだハードコアなんて言葉は浸透してなくて当時はあの辺の音楽を総称してスケートロックなんて呼んでた。

 

そしてオレのお目当てってのが、当時、ラフォーレの近くにあった”ストーミー”ってでっけえスケーターショップだ(今もあったっけ?)

ヒトミちゃん曰く、初心者とりあえずここ行きゃ一式揃ってなわけで、店に入ってあの”クールな板”を物色、気を使ってあまり高くない板の前で右往左往。

じじいに早くしろよ、いつまで睨めっこしてやがんだとせっつかれて妥協に妥協を重ねてようやく板を買った。

 

じじいは明らかに原宿って街に居心地の悪さを感じてイラついてたっけ。

あのじじいはもっとラフで小汚いやかましい場所、華やかな都心より裏街道みてえなところが好きだった。陽の当たらない、危うさのある場所さ。

ーオレ自身大人になってから、じじいと同じように華やかな場所よりアングラな危うい住人のいる世界、ロンドンでいうなら南部あたりが大好きになったわけだが、今ならその理由がわかるよ。

そういう場所にいる連中といると、より人間的でいられる。生きてるって実感があるんだよな。

奴らは文字通り一生懸命生きてる。

自分らしくいられる感覚があるんだよ。ー

 

「上野行こうぜ、上野!」

 

そう言うとじじいは待ってましたと言わんばかりに目を輝かせてオレ達置いてけぼりにする勢いで歩き始め、上野に着くなり駆けつけ一杯ってなもんで、小学生の頃目にしたあの光景  ー小汚ぇ居酒屋で飲むってあれだ。

 

あの時は母もつられて飲み出したもんだからヒヤヒヤしたぜ。

いや、オレ達は3世代揃って酒癖が悪いんだよ。

自他共に認めるってやつでさ、この頃はオレも気づかなかったが、この手のキチガイ(オレ含め)はアルコールが入ると手がつけられない。ドラッグよりたちが悪いんだよマジで。

うちの母親なんて泥酔したまま小さいオレと兄貴乗せて運転して田舎じゃありえない交通渋滞起こしてるんだぜ?しかも次の日には何一つ覚えてないって災害以外の何物でもないだろ?

 

「ママも高校生の頃たまに東京に来てたんだよね。」

 

気持ち悪い話だが、何故か母親は自分をママと呼ぶ。もちろんオレも兄貴も一度もママなんて呼んだことはない。呼ぶわけねーだろ?

奴は一般のママってよりジョンウォーターズの”シリアルママ”の方だぜ?ママなんて言葉不釣り合いにもほどがある。

 

「ふーん。金もねーのに何しに?」

 

「RC(サクセション)のライブ、あと服も買いに来てた。お金は男が出してくれてたし。」

 

中学に上がって以降、母は事あるごとに、まるで武勇伝のように男を利用する話をするようになった。

それがあの人の趣味であり、ライフスタイルの一部であり、生きる術ってやつなんだろうことがようやくあの歳くらいに理解できたが、思春期真っ只中のオレにはこいつを聞かされんのが嫌で嫌で仕方なかったよ。

なんせ女の子に興味を持ち始めた頃に現実を突きつけてくるんだからたまったもんじゃねえよ。

まあ、お陰で母のようなタイプの女に騙されるようなことは無かったしある意味感謝だよな。

ただ、ガキの頃から恋愛に感しちゃどこかドライになっちまったけど。

こんな極悪な母親に騙されてきた男がごまんといるのかと思うと警戒心が無意識に植えつけられるのは必然だろう。

まあ、この時は恋愛が何なのか全くわからなかったが。

 

聞けば母は東京に出たがってたらしい。

チャンスは二度あって、一度目は松田聖子を輩出したアイドルスター誕生への出場が決まった時。

これは母が酔う度に聞かされる耳ダコの話で、恐らく人生の中で一番大きな転機だったはずだ。

難関をくぐり抜けいざテレビ出演その日に学校サボって東京へ行こうとした当日、じじいに阻止された。テレビ嫌いのじじいは身内を芸能なんてクソの吹き溜まりみてーなものに売りたくなかったはずだしな。

母親はある意味、自分の価値ってもんがルックスのみであることをガキの頃から理解していたんだろうけど、てめえで応募して誰にも相談せずたった一人でテレビ屋に乗り込もうとしてたんだからどうかしてやがる。

しかしまあ、こいつが血筋ってやつなんだろうな。ジジイもオレも母も、行動するとなると悩むなんてことは一切しない。

 

ーこの頃はわからなかったが、オレ達一族は物事を仮定するのを徹底的に嫌うんだ。

“どうせこうだ””きっとこうだ””こうに違いない”

バカめ未来なんか誰にも見えるわきゃないぜ。

人生ってのは用意された塗り絵じゃない、白紙だからこそ描けるってもんだろ?ー

 

そして、母の2度目の東京行きは日体大の推薦入試を受けるという話があったそうだ。

これまたジジイが阻止しちまった。

理由はわからんがろくでもない目に遭うかしでかすか、目に見えてあのジジイにはわかってたんだろうよ。

オレも知らない、誰にも言えないような馬鹿らしいエピソードは腐るほどあったはずだしな。まあ、オレから言わせりゃそんなもん知りたくもねえ事実だけどな。

 

将来どうしたい?夢はあるのか?目標は?

確かこんなことを聞かれた気がする。

思春期真っ只中、何処へ進学するかどうかなんてチラホラ学校でも話題になることも増えてきた時期さ、展望ってやつがあるのかどうか知りたかったんだろうが、オレには何のプランもなかったしぶっちゃけこの馬鹿らしい状況の中でいかに人生楽しむかってことしか考えてなかったよ。

そりゃそうさ、世の中道行く人全員がこの世の終わりって面して歩いてんだぜ?”未来への希望”なんてものがどこにあるってんだよ。

誰がそいつを見せてくれる?何処へ行きゃいんだよ?道を指し示す指標なんてものはバブル崩壊後の日本にはなかったのさ。

敗戦後の焼け野原にも似た状況だろうな。

 

「高校へは行くんだろ?」

じじいがそういうと

 

「多分ね、働きたくねーから」

そう答えた。

 

ーオレは究極の労働嫌いだ。仕事に生き甲斐なんてものを感じたことは一切ないし、てめえの会社ならまだしも誰かにこき使われて生き甲斐だと言い切れる奴なんて理解もできない。労働は生きる為に銭を稼ぐための手段であり、金はただのツールでしかない。この考えはずっとガキの頃からあった。このツールを有効活用してる奴なんているとは到底思えなかったからな。ー

 

「ふざけやがってこの野郎…」

じじいはバツの悪そうな表情を浮かべ笑った。

 

明くる日、オレは仲間たちをいつもの駐車場に集めて買ったばかりのスケボーを乗り回してた。最高に楽しかったな。

オレは自分が心から欲しいと願ったものは心底大事にする。基本的には興味を失うことなんてほとんどないんだよ。

欲しい物が買ってもらえない耐え難い生活を何年も強いられたら必然的に物を大事にすることが染み付いちまうのさ。

 


すると高校生が一人、オレ達のところへ近づいてきた。

 

「やべえ…ありゃあ関田さんじゃねえか?」

オレは相棒のトシに言うと

 

「あの人はスケボーくらいでガタガタいう人じゃねえから大丈夫だろ…多分…」

 

この時期は世代間におけるセンシティブな問題がオレ達の世代にだけ起こっていた。

 

上の世代の人達は前時代的なヤンキー文化を引きずってる人も多く、”新世代のカルチャー”を受け入れられない連中が多かった。

 


なんだその髪は!その格好は!なんてニグロパンチやリーゼント頭の”先輩達”によく言われてたんだよ。

人の格好ってのは本人の自由だろ?何で人にとやかく言われなきゃいけねんだ?だがしかし、どういうわけか理解できないものは全否定、それどころかそいつをてめえの都合いいように他人様の個性を削ぎ落としてやれなんて奴がどこにでもいやがる。そんな権利誰があるってんだよなあ。

 

別にオレ達は”新世代”なんて意識はなかったよ。勝手に連中が新しい何かだと思ってただけなんだろ。そいつが悔しかったのか何なのかわからんが”指導”を貰ったことも少なからずあった。

なもんで先輩方に出くわした時は毎度肝を冷やすハメになるわけだ。

 


近づいてきた関田さんは開口一番オレ達に聞いてきた

 


「よー!お前ら!アメリカのパンク好きなのか?」

 


「はあ…パンクって何ですか…?」

 


「それだよ、それ!ブラックフラッグ!好きなんだろう?」

 

冷たいアスファルトに置かれたラジカセからRise Above がけたたましくて鳴り響いていたあの日、オレは初めてパンクという言葉を耳にした。

そいつがオレの人生の全てを一変させるなんてこの時は思いもしなかったが、時代の変化と共に、オレの中で急速に何かが変わり始めていた。