The end of the world
タバコがバレてこっ酷くぶん殴られ、普段あまり手を出さない父親にまでぶん殴られた挙句、秘密基地へ集まることを禁じられ、最低最悪の小学5年生の生活は幕を閉じた。
6年生になったオレは5年生でデカいことをやっちまったもんだから、多少おとなしくなってた。退屈と気だるさが堕落へ誘い、勉強も疎かになっていき毎日上の空。
友達とグランドに集まってただ喋るだけなんて日もあった。そいつはまるで暇つぶしに小石を川に投げてるようなもんで、ちょっとした抜け殻状態だったかもしれない。
一つ大きく変わったことといえば、女子に嫌われちまったってことか。
女の子ってのは先に大人になるからな。オレ達みたいなのが酷くガキっぽく、喧しく映ったんだろうぜ。
“男子ってガキっぽくて馬鹿みたい”みたいなさ。
年頃の女の子はみんな大人に憧れを抱くだろう?オレ達はその真逆さ、なんせガキであること最大限利用して遊んでたからな。
白馬に乗った王子様なんて田舎の小学校には当然いるわけないし、オレだってなる気もない、とにかく女子の神経を逆なでするのがオレ達だった。
更に新しく担任になった小川先生ってのが28歳と若くて高身長の爽やかイケメンだったもんだから始末が悪い。
女子はたちまち先生側になっちまったってわけ。
いつもニコニコしてて、しかも女子に人気があるもんだから最初は何だこいつって感じでムカついてたよ。
加えて、12歳の頃にはもはや”先生”って存在に何の信頼も尊敬もなかったし、奴らは先生というラベルを貼り付け、”それらしい顔”の仮面被り、お決まりのフレーズを並べれるだけ。
まるで大量生産されたブリキのロボット人形にしか見えなかった。
”普通じゃない”なんてレッテルを貼られていたであろうオレはひねくれていたし、もはや学校なんて暇つぶしとしか思ってなかった。
要するに学校ってもんに心底失望してた。
ある日、6年生の教室は最上階にあったもんだからオレ達はベランダから唾を垂らして誰かに当てたら1ポイントなんて究極にくだらねえ遊びをしてた。
教頭か校長が最高得点だ!なんてアホなことに躍起になって、繰り返してるとまさか本当に当たっちまったんだよ教頭の肩にさ!
教頭は頭カンカン、顔を真っ赤にしてブチ切れて「誰だー!」って怒り狂ってる姿を見ながら笑ってた。
クラスは女子vsオレ達って状況だったおかけで”小川先生に言うから!”とまあこんな調子で早速チクられていつものように呼び出し。
オレ達は完全に風紀を乱す学校内の悪だった。
今度の担任はどんな感じだろう?
ゲンコツか?怒鳴り散らすだけの野郎か?どっちでもいい、オレには痛くもかゆくない。奴らは必ず”手加減”することを知ってるし、暴力には慣れてたから。
オレにとって恐ろしいのはあの悪魔を呼ばれることで、心配はいつもそっちの方だ。
オレ達は特に悪びれる様子もなく、あの重苦しい職員室を開けると小川先生は、オレ達は別室へ連れて行かれた。
“こりゃあやべえ、悪魔を呼ばれちまう!どう切り抜けるか?”なんて冷や汗かいてると先生はオレ達と”同じ目線”にまで落とし口を開いた。
「みんなの話は前々から聞いてるよ。先生は別に怒ってない。
ちょっとみんなに聞きたい事があってさ。」
は?怒ってないだって?おいおい、どういう事だよ?オレ達はあんたらを怒らせるためにやってんだぜ?
思わぬ肩透かしだった。
「みんながやってることって本当に楽しい?あれつまんなくない?少なくとも先生とクラスのみんなはつまんないって思ってるよ。先生も子供の頃イタズラが大好きでさ、よく怒られたけどもっと面白いこと考えてたと思うよ。」
先生は怒るどころかむしろ笑顔なんだよ。しかもオレ達がつまんねーだって?なんなんだこの人は…?
「退屈してるならみんなが笑顔になるようなことしてみたらどうだ?この5人は人気者なんだしきっとできるよ。
“良い行い”っていうのはみんなが笑顔になることなんだ。楽しいときは笑顔になるし、幸せな場所には必ず笑顔があるものさ。笑う門には福来るって言うだろ?それは君たちにだってわかているはずじゃないか。」
オレ達は先生の言葉の意味について考えたよ。
自分達の行動や、その責任の所在や影響ってやつについてさ。
周りのことなんて一切気にしちゃいなかったし、勝手にこれがクールだと思い込んでたからな。
オレ達もそろそろもう一段階成長しなきゃいけない時期に来てたんだろう。
何よりませた生意気なクソガキだったオレ達はクールじゃなきゃ意味がねえってのが信条だった。
まあ、今考えてみると死ぬほどダサいことばかりやってたわけだが…
何だか自分のやってることが段々つまんなく感じ始めた頃、オレ達は昼休みに決まって”タイマンドッヂ”なる遊びをやっていた。
当時人気だった漫画”ドッヂ弾平”の影響だったと思うが、一対一で至近距離からボールをぶつけ合うんだよ。
しかも手加減無しに顔面狙ったりするもんだから鼻血流しながらやってたっけ。頭悪すぎるよな。
すると小川先生がやって来て
“俺も混ぜてくれよ、1対3でいいからやろうよ!”なんて言い出した。
その辺にいたクラスの連中もギャラリーとして集まってきた。
まあ、この先生は運動神経もズバ抜けてて、球は一切当たらねえし恐ろしく強かった。
誰か勝てる奴はいねえのか?ってクラスは先生の話で持ちきりになった。
また別の日にはトランプを持ってきてポーカーを教えてくれたことがあった。今の時代なら問題かもな。
これもクラスみんな集めてさ。
“ポーカーは技術もあるが精神力が必要なゲームだ。例え持ち札がダメでも相手を負かすことだってできるんだよ。”
オレ達は先生が教えることに何でも夢中になった。教え方の上手さもあったし、何より興味を引くように話をしてくれるから。
オレみてえな頭の悪い劣等生でも理解できるように説明するんだぜ?
12歳の頭でも理解できるようにものを教えるには12歳の心も理解しなきゃできない芸当さ。
ー誰だって大人になりゃ子供の頃のことなんて忘れるもんだ。
ガキの頃はつまらない大人になりたくないなんて言うわりに殆どの奴らつまらない大人になっちまう。
散々つまらん大人を見てきたはずなのに”今の若い奴らは”だとか”昔は良かった”なんてクソみたいなつまんない大人のキャッチフレーズを吐くようになるのさ。40になった今なんてオレより若い奴らが言い始めてんだからゾッとするよ。
考えてみろよ、昔が良かったなら今はもっと良いはずだろ?今が良くねえなら昔も良くねえし、何だったらどっかで間違いがあったはずなんだ。
古き良き時代を懐かしむよか、何がいけなかったのか現実に向き合うべきだろ?過去から学ぶってのはそういうことじゃないのか?ー
ところが先生はいつでもどこでも簡単に子供に戻れちまうんだよ。
それでいて大人としての度量、安心感、責任感、知性を持ち合わせる人だった。
明らかに先生は他の”大人”とは違っていた。
”子供なんだから”なんて大人の目線から押し付けることは一切なかったし、
常に同じ目線で考え、話をする人だ。
正に”先を生きてきた”文字通り先生だった。
ある日体育の授業で一人だけ逆上がりのできない奴がいた。
オレは体育はとにかく得意でさ、足は誰よりも速かったし、鉄棒や跳び箱の類も難なくこなしてたもんだから、なんでこんな簡単なことができねえんだ?なんて増長して少し小馬鹿にしてたんだよ。
すると先生は ー
“クラスで一上手いのはお前なんだから先生の代わりにどこがいけなくてどうしたらできるようになるか教えてくれないか?”と聞いてきた。
オレはその大役を引き受けた。
教えることの難しさも学んだが、何より大事なのはできないことをバカにするくらいならできるように協力するのが友達だろうってことさ。口で説明するんじゃなく体験から学ぶわけだ。
その時、ふとじいさんの言葉を思い出した。
ー100人できることができて威張ってる野郎なんて退屈な奴だ。ー
危ねえ、まさにオレがその退屈な野郎になるところだった。
教育者という立場からの視点という違いはあっても、先生の言いたいこともあのじじいと同じだったに違いなかった。
そうしていくうちにバラバラだったクラスは次第にまとまっていった。
何せクラスの人気者は先生であり、誰よりも信頼できる人も先生だったから。
先生のやり方は常にディスカッションだった。お互いがお互いを理解し合い尊重することを重んじていた。
人それぞれ違いがあって当然さ、成長速度に個人差がある多感な第二次成長期なら余計にな。
だからお互いの理解を深め合うことが何よりも大事なんだよ。
大雪が降った次の日は一限目から
“勉強はやめだ!こんな日はみんなで雪合戦しよう!”なんて先生は誰よりもハイになってグラウンドに飛び出してさ。ありゃ笑えたな。
先生は雪国の生まれじゃねえのに雪が大好きだったから。
先生はグループを二つに分けたんだけど、男女混合でしかもオレとはてんでウマの合わない女子グループの子たちが同じチームだった。
今思えばあれは先生の狙いだったんだろうな、同じ目標を持たさせりゃ結束するだろうってね。
体育祭じゃ競技は全部男女別々だったし、この雪合戦で初めて女子と協力することになったわけだ。
そして実際この時、初めてこのクラスの女子と打ち解けた記憶があってさ、見事、先生の思惑通りってわけだ。
この1年間を通してオレの成績はうなぎ昇りで、算数と図工を除いて全て5を取ったこともあった。
元々、勉強は好きだったし先生の授業はどれも楽しかった。
何のプレッシャーもなくのびのびと学べたんだよ。あれこそ真のゆとり教育ってやつさ。
悪さもしなくなったせいか、母の暴力もこの時期は殆どなく、これ程までに暖かく充実した毎日はあっただろうか。
思い返すとこの40年の人生の中で最も幸せで、平和な一年であり、毎日満ち足りた日々だった。
その全ては毎日笑顔で教壇に立つ我らが小川先生のお陰だったよ。
昼休みが毎日楽しみでさ、みんなで先生を囲んで話したことを思い出すと今でも涙が溢れてくる。
1993年3月ー
いよいよオレたちは卒業式を迎えた。
学ランを着たオレ達を眺めながら先生は涙いっぱい目に溜めながら笑っていた。
小川先生の最期の授業を前にしオレ達も涙が溢れた。
「みんなは4月から中学生になります。中学生ならもう自分で考え、自分で判断し行動できる歳です。
いいかい、これだけは覚えておいて欲しい。
大人だからってみんな正しいわけじゃない、大人だって間違ったこともするし、嘘つく人もいっぱいいる。
だから、自分が絶対に正しいって心の底から思えるなら大人の言うことなんて聞かなくていい。
自分の心に従って行動しなさい。
もし、この先みんなの人生の中で、嫌な大人、汚い大人に出会ったら心の中でこう強く念じなさい。
“こんな大人になんか絶対なるものか!!”
そうすればきっと君達は”素敵な大人”になれる!
君達が素敵な大人になってくれることを先生は信じてるよ。
卒業おめでとう!」
先生の最後の教えは、オレの人生に最も影響を与えた最高の言葉の一つだ。
この教えは今でも守り通してきたし、一度も破ることなくこれまで生きてきた。今になって先生の言葉の意味をようやく理解できたような気がするね。今でも先生は正しかったとオレは信じている。
その後も小川先生は小学4年生から6年生の担任をずっと続けていた。
出世なんてくだらねえもんに目もくれずにね。
常に人気の先生だったらしい。
そりゃそうさ、小川先生は世界一の先生だぜ。誰があの人に文句言えるってんだよ。
ガキ共にとってあの人こそ最高の大人さ。
ーーーーー
残念ながら、小学校卒業から12年後のある日、母からの突然の電話によって訃報を聞かされることになった…
泣きながら話す母から小川先生が亡くなったと伝えられた。
享年40歳。
体調不良を訴え、病院の精密検査で肺癌が発覚した時にはもう手の施しようのないほど進行しており、まだ若かった先生は病気の進行も早く、入院から僅か2カ月であっという間にこの世を去ってしまったらしい。
ヘビースモーカーだった先生はベランダでよくタバコを吸ってたっけ…
ある日、クラスの女子が
「先生、タバコばっか吸ってると病気になっちゃうよー。」なんて言うと
先生は
「病気になろうがなるまいが、先生はみんなより先に死ぬからなあ。
これは順番だから。
みんなは順番間違えちゃダメだぞ。これは絶対約束してくれよ。」
なんて言ってたっけ。
先生、たしかにあなたは順番は守ったのかもしれないよ。先生はオレ達の前じゃ絶対嘘つかない人だもんな。
でもさ、先生、いくらなんでも早すぎるじゃねえか。
約束を果たすのはもっと後でも良かっただろ?
先生、見てくれよ今のこの酷い世の中を。
あの頃は少なかったオレみたいなガキが溢れかえって苦しんでるんだよ。
今こそあなたの様な人が必要じゃねえか…あなたのような”素敵な大人”が…
思い返してみると、先生、あなたもきっと沢山汚い大人を見てきたんだね。
だから子供達の為に先生になったんだろ?未来を託すために、希望の火を絶やさない為に。
先生がこの世界にいないなんて残念で悔しくてたまらないよ。
ーーーー
こうして最高の卒業式を終えたオレは中学、そして高校へと進んでいくことになるのだが、時代はバブル崩壊から氷河期へと移り変わり、人生は予想だにしない方向へと向かっていくことになる。
90年代… 思春期、東京、ファッション、パンクロック、カルチャー、ドラッグ、それはオレにとって激動の時代への突入を意味するのだった。
ー第一部完ー