Naughty Kid 怒りの日

Anger is an energy, it really bloody is

Aggravation place

オレの住んでた地域は川沿いで貧乏長屋や同じ形をしたボロアパートが点在する妙な住宅地だった。

杉林が近くにあって、夜は街頭もなく真っ暗、坂だからけの山道がいたるところにあり、家の目の前は広大な田んぼが広がってて夏はカエルの大合唱を聴きながら寝たもんさ。

そこにはあらゆる貧乏人達が流れ着き、ひしめき合っていたわけだが、時はバブル全盛の日本国民総小金持ち時代。

あの時代に貧乏人とくりゃ出稼ぎに他の国から来た連中や、訳ありの人達さ。

 

どっからか夜逃げしてきたらしいなんて人もいたし、逆にある日荷物一切合財置きっ放しで消えた一家もいたっけな。毎日きったねえパジャマ姿で奇声を発してるジジイもいりゃ、精神疾患による障害者年金で暮らすおばさんがとなりに住んでたり、少し離れたところには近所にあるロシアンバーのおばさん、フィリピン人、ブラジル人、タイのニューハーフなんてのもいたし、高校生になるまで知らなかったが隣町には中国人が住む集落もあったらしい。

小さな田舎町ですら”その手の夜の店”が賑わっていて”訳ありな人達”はそういう店で働くか言葉を交わさなくても仕事ができる工場の単純作業なんかしてる人が多かったな。

 

今日に至るまでオレは”ガイジン”という言葉を口にしたことはない。

日本人とそれ以外で区別するために使われてるらしいがガキの頃から日常の中にいて同じように生活してりゃ区別なんてする意味がわからない。

そもそもうちのじじいだってどこの人かもわからねえわけだし、日本人が口にする”ガイジン”はオレにとっちゃ”隣人”だったわけだ。

 

母はその辺の連中と仲が良くて、時々うちにも遊びに来てた。特にタイのオカマちゃん達とロシア人のおばさんは可愛がってくれたような記憶がある。

 

恐ろしく香りの強い香水プンプンさせてる上に、ゴテゴテと塗りたくったとんでもねえ厚化粧!ハグされる度に鼻がひん曲がる!ってくらい強烈で臭えのなんの!

人生で初めて感じた夜の匂い、水商売の匂いってやつだ。

今以上に水商売や外国人に対する偏見が強いあの時代だから、その孤独は計り知れないだろう。ましてやあんなクソ田舎に来るくらいなんだから何かあった人達に違いない。

記憶してる限り、みんな温かくて感じのいい人達だったな。

お喋りが本当に好きでね、あのやかましさが何にもない家を少しだけ別の空間にしてくれた。

典型的な小学生に落ちついた兄貴はガイジンが来たーって怖がってた。

オレの前じゃ一丁前に威張ってるくせにでけえ図体して笑えるぜ。

 


ー母もまた相手がどんな奴だろうが誰とでも仲良くなるような人で、オレにとっちゃ悪魔か鬼か、この世で最も恐ろしいモンスターだったが、周りからは自由奔放で裏表の無い性格が天真爛漫に映っていたのかもしれない。ー

 

うちが唯一良かった点といえばどんな人も区別/差別しないという教育が徹底されていたことだ。

 

この”どこよりも豊かで平和な国:日本”で長年まかり通ってる頭の悪すぎる三原則

 

“知らない人とは話しちゃいけない”

“ついていってはいけない”

“信用してはいけない”

 


ーこのクソみたいな教育を受けて育った連中は可哀想だね。半径数キロ程度の狭い世界でしか生きていけない臆病者が多くてビックリするよ。しまいにゃ挨拶もろくにできない大人が溢れかえっちまった。ー

うちにはそれがなかった。

オレ自身もすっかりお喋りが大好きな人間に生まれ変わっちまったもんだから知らない奴ってだけで話したくなる。人それぞれ誰だって自分とは違うストーリーを持ってるだろ?

オレはそういう話を聞くのが好きなんだ。

あんたが語りべとなりあんたの話を聞かせてくれりゃ、オレから言わせりゃ誰もが主人公さ。武勇伝のような活躍した話じゃなくても構わない。

隣にいる奴がオレとは全く違う人生を歩んでるってだけで面白えじゃねえかってね。

ー海外の連中からよく言われるよ。

“お前以外の日本人は何故シャイなんだ?”

実際のところ日本人はシャイじゃねえ。いや、確かにシャイな奴は多いが他人を信用しないように生まれたときから教育されてるだけだ。他人の顔色うかがってイエスともノーとも言わないのが正しいだなんてどうかしてるよ。

本心をひた隠し“忙しいから”とか平気で嘘つくしな。

空気を読むだとか社交辞令とかどこで覚えるのか知らねえがそんな常識に従う気はないね。まあ、そんなものに従ってる退屈な連中はおよびじゃねえけど。ー

 

学校という集団生活の中で生まれる”仲良しグループ”ってシステムも大嫌いだった。大体人が集まると意味のない秩序やルールが生まれ、リーダーやらなんやら上下関係ができたり、友達同士が組織に変わった瞬間みんな人が変わっちまう。そいつはもう友達とは呼べない。友達に上も下もないだろ?

オレ達は猿じゃねえ。

だからオレは常に色んな奴らといた。

趣味趣向が一緒じゃなきゃ話もできないなんてアホくせえし退屈だね。

色んな性質を持った連中と関わることで知らないことを学ぶのさ。

教育的現場ってのはわかりやすいように個性を削ぎ落として統制することじゃない。色んな個性がぶつかることで新しいものを生み出すきっかけにだってなるんだぜ。

 


一方で少しずつオレ達は成長への第一歩を進み始めていた。

“反抗期”の訪れさ。

 

平成の時代到来から2年、小学五年生になる頃には学校でも家でもなく、自分達だけの場所が欲しくなり寂れた廃工場を”秘密基地”として集まるようになった。くすねてきたタバコやエロ本かなんか持ち寄ってさ、ありゃあ最高に楽しい思い出だったな。

オレの世代ってのは”スタンドバイミー”や”グーニーズ”に思いっきり影響を受けた世代でね、誰しもがこんなことをガキのころやってたんじゃねえかな?

ー80年代から90年代初頭の田舎のガキの娯楽っていえば自然の中で遊ぶか、ファミコンか漫画か映画くらいなもんでさ、オレ達は映画が大好きだった。

今と違ってレイティングに寛容でゆるい時代だったからホラー映画もちょっとエロい映画もゴールデン洋画劇場や水曜ロードショーなんかで堂々とやってたんだよ。

バタリアン」のテレビ初放送の次の日なんてもうお祭り騒ぎでさ、クラス中みんなで「脳みそくれ〜!」なんてやってたっけな。ー

色んな奴らと遊んでいたが結局オレの”遊び”についてこれる奴がいなくて気づけば周りは尖がった親友達5人(こいつらとは結局18歳まで一緒にいることになる。)

で毎日のように廃工場で集まっては遊ぶようになった。

 

みんなそれぞれが強烈な個性を放つ奴らで、反抗期のガキらしさ全開”アンチ大人”を掲げてた。

バラバラの個性だが全員共通していたのは貧乏で居場所のない連中だった。お互い何も言わないが家庭に少なからず問題がある連中だったと思うよ。でなけりゃ秘密基地に入り浸る必要はないだろ?

 

オレ達はいよいよ学校のシステムの押し付けや矛盾にムカき始めてきた。クソ寒いのにマフラー禁止、髪の毛が少しでも耳にかかっただけでその場で切らされる、家から学校まで歩いて50分の距離なのに自転車も禁止。

記憶が曖昧で思い出せないがほかにも意味不明な校則という名の法律が山ほどあった気がする。

 

何故?という疑問に誰も答えようとせず、理不尽な校則にも、決まりだからと疑問を持たずに従ってしまえる連中にもムカついてた。

オレ達は行き場のないフラストレーションを抱えて爆発寸前の状態さ。

 

ーガキにはガキの世界があり、ガキなりの悩みをそれぞれ持ち、大人には及びもつかないことを考えているもんさ。

誰だってガキの頃があったにも関わらず殆どの連中はすっかり忘れて”所詮子供だ、言うこと聞いとけ”なんてつまんないことを言い出す。

誰も耳を貸そうなんてしやしねえ。ー

 

オレ達はなんとか大人をギャフンと言わせたいと思っていた。

特にあの忌々しいクソ学校。

反逆のタイミングを伺いながらオレ達は静かに闘志を燃やしていた。

 

時はバブル崩壊前夜。

それはこの国の“大人”が最も増長し、日本はNo.1だというひと時の幻想に浮かれていた時期だった。

One Step Beyond

オレと同じような環境に育った奴ってのは世界的に見ればそう珍しくない。なんなら性的虐待がなかっただけまだマシな部類かもしれない。

 

その手の奴らの中にはひねくれて、こんな自分にしたのは環境のせいだとか、こんな時代のせいだとか、親のせいだとかいう奴がいるが、そいつは違うな。

確かに傷は残ってるがてめえで考えて行動できるなら全ては自分のせいだ。どんな言い訳をしようが、今の自分の姿は自分の望んだ姿だ。

運命とやらがあるならそんなもん憎んでも何も始まらないぜ。

 

PTSDと診断されようがカタワ扱いされようが、親の愛情が足りなかったなんて憐れみの目で見られようがだからなんだってんだ。

 

環境のせいにするなら環境変えればいいだけ。

親のせいにするなら奴らに頼らず生きればいい。

時代のせいにするなら徹底的に時代に抗えよ。

生まれてきた以上は楽しむ権利はあるはずだぜ。

重度のトラウマや日常生活に支障があるレベルの人達は仕方ないにしろ、被害者面して甘えてる奴らだっているからな。

 


状況は自分で作るしかない、誰かが1から100までお膳立てしてくるわけはない。

もし誰かがやってくれたとしてもそれは自分で望んだことじゃないだろ?

 


ーーーーーー

 


小学生になったころ、環境に馴染めず人と話するのも嫌で嫌で仕方なかった。

同級生はまるで別の世界の人たちで話なんか合うわけないとすら思っていた。

 

赤毛交じりの髪に青白い肌、目の下にはいつもクマがあって周りからは気味悪がられてた。

同級生からは”キョンシー”なんて陰口を叩かれてたらしい。

初日からストレスの連続で誰かと行動することが嫌すぎて集団下校も逃げだし、身体検査もお腹痛いなんて嘘ついて別の日にしてもらった、初めての遠足も休んでじいさんの家に逃げこんだこともあった。

 

授業も毎日上の空、宿題もろくにやらずめったに怒らないハトみたいに穏やかな担任の先生も流石にブチ切れてウチのクラスの子じゃありません!とヒステリー起こして教室に追い出されたこともあった。

 

今なら不登校になるところだろうが、80年代は義務教育中の不登校は有り得ない。絶対に認めない。

殴ってでも無理やり引っ張ってでも学校に連れていく。それが当たり前の時代だった。学校に行きたくないなんて言えば母からの超暴力が待っている。

つまりどうあがこうが学校から逃げ出すことは許されなかったってわけだ。

 

学校に行く意味をまるで見出せず、オレは学校の中で誰よりも置いてけぼりにされていた。しまいには誰からも相手にされなくなり、誰もがオレを無視するようになっちまった。

クソみたいなイジメのシステムが発動したわけじゃなく、ようやく一人で風呂に入れるようになり、お漏らしもしなくなった程度のガキ供からしたら、オレはひたすら不気味で理解を超えた謎の物体Xでしかなかったはずだ。


ーこの状況は成人して以降も未だにある。なんだあの人は?見たことがない、出会ったことがない、理解し難い、だから話したくない、怖いので無視しておこう。

こんな奴らはてめえの中になんのカルチャーも持てない連中だ。

メディアの発信するクソみたいなもんに何の疑問を持たずに生きてきたんだろうぜ。ジジイババアならまだしも感性豊かなはずの若者までそんな態度を取るんだから今の世は恐ろしいぜ。

奴らの世界は半径数メートルかテレビかインターネットしかないのか?そうやって自分の世界を狭めてどうする?ー


あの時、オレの声を聞いた奴はクラスにほとんどいなかったんじゃないか?まるで透明人間にでもなった気分さ。

オレはそこには存在してない。

ただ、給食があるから昼飯にありつける。ただそれだけの為に通っていたようなもんだ。

 

唯一の楽しみは昼休み中に図書室へ行き、ひたすら本を読むことだった。

オレの読書好きはここから始まったと思う。

読書はていのいい現実逃避には持ってこいだ。つらい現実を忘れて別の世界に連れていってくれる。

漫画も悪かないが、小説の方が好きだね。自分のイメージで形を想像できる、自由な発想ができるからな。

小学一年生の頃とりわけ好きだったのは偉人の伝記ものの絵本だった。

多分、どっかの出版社が出したシリーズもので、100ページにも満たない6歳でも読めてエジソンとかナイチンゲールとかそんは感じの有名やつだったと思う。

1年間で全部読破したよ。いや、もしかしたら2周くらいしてたかもしれない。

別に偉い人になりたいとか憧れなんてものはなかった。未だに夢や希望なんてものは一度たりとも持ったこともねえし、目標はあっても常に現実を見据えてる。オレ自身は空想家なのにおかしな話だよな。

あの頃は他人の人生に興味があっただけなんだよ。どう生きてどのように幕を閉じたのか、それが知りたかった。この絶望的な状況でどう生きていけばいいのかという不安が無意識にあったんだろうなと思うよ。

いつか母に殺されるんじゃねえかって恐怖もあったしな。

 

一番のお気に入りは「ファーブル昆虫記」これは今でもはっきり覚えてる。

いい歳した大人がフンコロガシを追いかけ回してるんだぜ?あんなどうでもいい生き物を必死に研究してるなんてすげークールな奴だと思ってさ。

こっそり図書室から持ち出してそのまま借りパクしちまったくらいさ。

着眼点の違うこういう人がやけに愛おしかった。変人扱いされてたんじゃねえか?なんて考えるとなんだかシンパシーを感じてさ。

マジで根暗なガキだよな。

 


一年生の終わりに近づいたころ、この絶望的な状況があと5年以上続くのかと思うと急に怖くなった。

兄貴はそれなりに友達もできて楽しくやってんのに、オレの体たらくといったらなんだ?情けねえ。

 


段々自分自身にムカついてきた。

このまま無言を貫き通してどうなるのか?このままじゃ何も変わらねえ。

 


じいさんにふと聞かれた。

 


「学校は楽しいか?」

 


「全然楽しくないよ。学校って何しに行くの?意味ねーや」

 


するとじじいはこう答えた。

 


「知らない奴は新しい友達だと思え。それから困ってる奴がいたら親切にしろ。どんな状況でも楽しもうとしなきゃ楽しくない。つまんなかったら楽しいことを探し出せ。」

 


「先生はお前のために何かをしてくれるわけじゃない、学校ってのは沢山人がいるだろう?誰もお前一人になんか構っちゃいられねえんだよ。学校ってのは自分から学ぶ場所だ。」

 

そうなんだよ。

学校ってのは待ってたって何も教えちゃくれねえ。

あの頃の自称教育者ってのは今考えたら大層な怠け者に見えるぜ。

こっちから学び方を考えなきゃ奴らはただ機械的に進めて詰め込むだけだもんな。

何のディスカッションもない、ただ置いてけぼりにならないようについてこい。

日本のクソみたいな教育システムってのはそういう風にできてる。

個性なんかおかまいなし、何だったらそんなもんは社会に出たら厄介になるんだから早く捨てろというのが奴らの教育だ。

バブル崩壊後は

「敷かれたレールを歩け、誰かが歩いた道を歩けば歩きやすい。ただし、一度踏み外したら一生戻ってこれない」などとという脅し文句にも似たネガティヴキャンペーンまで始まった。

今の世の中の安定志向とやらはこのへんの教育からだろう。

んで、色んなことを諦めて安定を求めた結果みんな幸せになれたのかね?

幸せそうには見えねえけどな。


とにかく自分の場所は自分で作るしかねえ。2年生になったのを境にオレはいろんな奴と手当たり次第話すようになった。

なんだこいつ?って感じだろうが知ったこっちゃない。お互い知らねえんだし好きも嫌いもないぜ。

話してみりゃ何のことはないみんなも同じように慣れない集団生活に不安を抱えながら生活していたんだ。

金持ちだろうが貧乏人だろうが同じ場所にぶち込まれりゃ立場は一緒ってわけだ。たちまちオレは色んな奴らと仲良くなった。

 

話さなきゃ人間わからねえことの方が実際多いんだよ。地球上の生物の中でこれだけ複雑な言語を喋ってんのは人間だろ?ならその機能を最大限使わなきゃ人としての意味をなしてない気がする。

オレはそう思んだよ。


もちろん体の痣や傷のことは誰にも言えなかったし、複雑な家庭環境に関しても言えなかったけど、みんなと仲良くなれてスゲー嬉しかったのを覚えてるよ。自分の力で作りあげた居場所ってやつさ。

 

豚小屋のような家にいるよか学校の方がよっぽど居心地がよかったね。

話し相手だっているし、休み時間になりゃボール持ってドッヂボールやってさ、算数を除きゃ勉強も好きだったしそれなりに楽しくやれるようになった。

 

ーこの頃から陣取り合戦じゃ負け知らずだ。東京でもダブリンでもロンドンでもそうさ。オレは見知らぬ土地、言語も肌の色も宗教、国籍が違っても一人っきりになることは一度もなかった。ー

 

1年間溜め込んでいた怒り

ー透明人間なんて真っ平ゴメンだ!よく見てみやがれ!オレはちゃんと生きてんだぜ!お前らと一緒にここで!ー

オレは自分のこの怒りを他人や暴力には向けず自分自身に対して利用したのさ。

 

ジョンライドンのAnger is an energy(怒りはエネルギー)これはマジだと思う。

オレはこの時始めて怒りが原動力になること覚えた。

怒りとは火のようなもので使い方を間違えりゃ相手を傷つけたり、自分自信を焼き尽くすことにになるが、上手く使えば燃料にもなるし、暗い道を明るく灯すことだってできるんだ。

 

赤ん坊の時と同じさ、立ち上がったんだ自分の二本足で。ほんのすこしの知恵と怒りをのエネルギーを加えてな。

オレにとって人生2度目の第一歩を踏み出したのさ。

 

悪たれ小僧

母方の祖父。

オレの最初の親友であり愛すべきクソじじい。

 

肌は浅黒く、髪の毛はカーリーヘア、髭面で瞳の色は茶。

革靴を履くことをとことん嫌いスーツにオールスターというトム・ペティを先取りした出で立ち。

出身国不明、本名不明。

職業ですら家族は誰一人知らない。

噂によると服の染め物を専門とするアート系の仕事をしてたとかなんとか。

 

 

 

ーじじいの姉、大伯母さんがユダヤ教徒であることイスラエルへの特別な感情から察するに中東の遊牧民であることだけはわかってはいるが実際のところ謎だらけであるー

 


自然をこよなく愛し、昔話は禁句と言っていいほど話さない、いや、話してはいけない空気が常にあった。

テレビは野生の王国以外まともに観たことはなく、飲む酒といったらウィスキー、そして赤ワインに大量の砂糖をぶち込むという謎の酒を飲んでいた。

ヘビースモーカーであり、時々、葉巻をふかすこともあった。

 


偏屈で変わり者のこのじじいは実家から車で30分離れた山のふもとにばあさんと住んでいて、中学に上がったオレは度重なる問題行動の末、ついに親が音を上げ(ざまあみやがれ)めでたく家を追い出され、このじじいに預けられることとなった。

じいさん子だったオレは昔からじじいの話だけはよく聞くし、家族に散々迷惑をかけてきた(実際何があったかは知らない)じじいに責任をなすりつける意味もあったらしいが。

 


共同生活が始まりほどなくしてじじいにこう言われた。

 


「真っ先に友達にならなきゃならないやつを知ってるか?人間が生きる上でまずやらなきゃいけないのは自然と友達になることだ。」

 


そう言ってじいさんに山に連れていかれ、猟銃片手に野うさぎ狩り、イノシシも捕まえたし、山菜を採りにもよく行った。

川では魚を釣り、家ではニワトリのお世話。近所にはコンビニもスーパーもなく、完全に自給自足の世界に突っ込まれたのさ。

同級生がドラクエかなんかで盛り上がってる間、オレはひたすら自分の食料をせっせと探してた。

最初は嫌で嫌で仕方なかったよ。

ガキの世界にだってカルチャーはあるし、重要なトピックに乗れなきゃ話ならないだろ?

だが生きる為には働かなきゃならねえ。これ以上空腹はごめんだ。

 


“与えられた仕事”の中でもニワトリの世話は楽しかったね。

毎朝、産みたての卵を取りに行ってありがとうって挨拶するのが日課だった。卵を取り上げる度にちょっと寂しげな顔をするあいつらが何とも愛おしくてさ。

だから心からのありがとうを毎朝伝えてた。

朝5時になるとやかましく鳴く奴らに最初は鬱陶しく感じてたのにな。

 


“命を頂いて人間は生きている”

それを実感すると全く別の感情が生まれるってもんさ。

オレにとってこの期間は非常に重要なものでかけがえのない貴重な体験だった。

 


生きることの根本、衣食住の食について学ぶには最高の環境だったと思う。

草や木花の美しさ、川の流れを見てるだけで心が穏やかになり、食べ物がどこからやってきてどのように人間に捕食されていくのかといった命の尊さを考えることができた。

自然に対する敬意はその辺のインチキヒッピーよりオレの方が上だぜ。

 


ー今でも酔っては自然に対する話はよく喋るんだが、自然を愛せない奴は間違いなくクソだ。

生きてることに感謝もできない、生命の尊さを理解できないなんてどれだけおごり高ぶった奴らなんだ?

そのくせブタみたいに飯にがっついて「ああ、生きるのはなんと辛いことなのか」なんてそれらしく嘆く。

おいおい、そいつは裕福の飢餓ってやつだぜ。自然や生き物はオレ達の為にあるわけじゃない。だから敬意を払うんだよ。

人間はそんなに偉かねえ。ー

 


ある日聞いてみた

 


「じいちゃんは何で野生の王国しか見ねえの?」

 

 

 

「テレビなんて嘘しか言わねえんだよ。

真実を映したらみんな都合が悪いからな。

自然は絶対嘘をつかない。

動物をよく見てみろ、自由奔放に生きていても一切隙がない。

生き物の中で不自然なのは人間だけだろ?

オレは生きることを動物から学んでるんだよ。」

こんなことをよく言ってた。

このじじいもまた”自由に生きることの不自由さ”に苦しんできたに違いなかった。

 


オレはじいさんが何者なのか常に興味があった。どうして頑なに家族に対してすら過去を話さないのか。

一体何があったのか。

 


じいさんのいない時、こっそりばあさんにじいさんの過去を聞いたことがあった。

 


曰く、じいさんは周りから「悪たれ」

と呼ばれ大人達に徹底的に嫌われていたらしい。

周りは仲間も多かったがそれ以上に敵だらけ、いや、何か敵がいなけりゃ

熱くなれない人だったのかもしれない。

 

 

 

ー実際オレもそうだった。

何かを愛するとき、無意識に一方で何かを嫌ってた。

仲間が増えれば増えるほど敵も増えていった時期もあった。

何故だかわからないがそうしないと心のバランスが取れない極端な性格だった。ー

 


じいさんとばあさんが同棲を始めたある日、「ちょっと出かけてくる」と言ったまま2年帰ってこなかったこともあったらしい。じいさんの兄(ドラッグディーラーで後にヘロインのオバードーズで他界)がいる東京に遊びに行ったら楽しくて気づいたら2年経ってたと言ってたらしい。

 


女好きのじじいのことだからてっきり自分のことなど忘れて二度と戻ってこない、捨てられたとばかり思っていたのにひょっこり土産まで用意して当たり前のように帰ってきたもんだからビックリしたそうだ。

 


晩年、じいさんに何でばあさん放っぽり出して東京に行ったのか尋ねたら

 


「ふと、行きたくなったから。」

 


理由はこれだけ、本当にこれだけなんだよ。

何となくだけでいきなり行動する。

うちのじじいはこういう人だ。

仮定というものを酷く嫌う。

“行動の先になにが起きるか”なんてことに時間を割くよりも”動いてみたら何が起きるのか”方が大事なのだ。

 

当然ながらうちにはクリスマスは無かった。幼少時代から一度もプレゼントは貰ったことないし、ケーキもチキンもなし、貧乏だったのもあるがじじいは完全なる無神論者だった。

とりわけ、キリストの教えとやらの馬鹿らしさにムカついてる人でもあった。

 

ガキの時分にじじいはこう教えてくれた。

 

「いいか、この世にサンタクロースはいない。欲しい物は自分で手に入れろ。誰かに期待しても何も手に入らない、いつか誰かが何とかしてくれるなんてことは考えるだけ無駄だ。」

 


じじい本人はサンタクロースみてえな髭面で言うんだから笑えるよな。

 


「この世に神はいない、いたとしても認めない。人の上に人を作ると人は下に人を作る。イジメや差別は神の存在を認めた瞬間から始まった。」

神の存在を真っ向から否定していた。

それはキリスト教徒にも仏教徒にもなれない自分のルーツの曖昧さ、コンプレックスがあったのかもしれないが。

 


ーなら人々が言うあの世やこの世とは?

天国と地獄とはどこにあるのか?

なんのことはない、どっちもこの世界にあるのさ。

天国が見つからなきゃ自分で作れ。独り占めにしてる奴がいるならぶん取っちまえ。そうだろ?じいさん。ー

 


小学生になったとき不器用で折り紙が折れずにバカにされた話をすると。

 


「100人ができることをできたからっていばってる奴は退屈な奴だ。

一番凄い奴ってのは自分にしかできないことをやった奴なんだよ。

折り紙なんか折らなくていい、オレだってできねえ。」

 


じいさんは母親と違った。

母は人が当たり前にできることをオレができないとクズ扱いしていた。

どんなことでも否定だった。

お前にできるわけがない、どうせやっても無駄。いつも可能性をぶち壊すのが母だった。

 


じいさんは逆でいつでも味方だった。

 


じいさんにとって世の中の常識なんてどうでもよかった。

心の底から正しいと自分が思ったことには例え相手が何様だろうが唾を吐く。

世界中が敵になろうがたった一人でも唾を吐ける究極の悪たれ小僧さ。

そんなじじいが大好きだった。

 


自分らしく生きることの大切さ、

世の中の”常識”なんてものにとらわれない柔軟さ、どんな人間だろうと受け入れられる寛大さ、生命の尊さ、自然への感謝、大事なことは全てじいさんに教わった。

 


オレの閉ざされた心はこの2年間により少しずつ解放された気がする。

憎しみと怒りに満ちた15年間にようやくほんの少しだが光が射したんだ。

 

オレを救ってくれたのは世の中が祈りを捧げる”神様”ではなく

確実に目の前にいる”祖父”だった。

1981

1981年3月。

 

オレはクソ田舎の山奥で生まれた。

2000グラム程度の未熟児一歩手前、右の顔にはアザがあり、また母方のじいさんの血を色濃く受け継いだオレは両親にも、1つ上の兄貴にも似ていないことに母親は大きく失望したらしい。

 

そう、生まれたその瞬間から母親との軋轢は始まっていた。

何をやっても母からは褒められたことはなく、可愛いがられたこともなかった。

父は朝から夜遅くまで仕事していてオレが高校生になるまで顔を合わせた記憶すらない。

幼少期は究極に惨めで、どこへ行っても馴染めず孤独を感じずにはいられない、そんな悲惨な時代だった。

 

時はバブル全盛期にも関わらず家は極端に貧乏で、20歳で二児の親となった両親は当時からしても余りにも若過ぎる親だった。

封建的な古臭い社会風習が色濃く残る小さな田舎町じゃ稼げるあてなど当然なく、オレが住んでいた場所はどう考えても家族5人が暮らすには無理な場所だった。


なんせ風呂もトイレも外、シャワーもなく家のテレビはリモコンのない真空管、エアコンもない、自分専用の部屋なんてのは夢のまた夢、1LDKの平部屋に五人住まいという子供ながらに地球上で最低の場所とすら思っていた。

この頃の夢は好きなものをたらふく食べること、そして自分の部屋を持つことだった。

友達の家に行くたびに羨ましくて仕方がなくてね、いつもテンション上がってた。

自分の部屋!水洗のトイレ!シャワー付きのお風呂!広いリビングと優しい家族!

 

オレの家はなんだありゃ?豚小屋か?友達も呼べない、居場所なんかない、隠れる場所も、救いもない。逃げ出すこともできない。

オレが自分の部屋に引きこもることはおろか、同じ場所に定住できない性格なのはこの辺りからきているのかもしれない。

家=息苦しい場所という刷り込みだ。

 

ーそもそも貧乏人は引きこもりにすらなれねえ。

引きこもりってのはオレからしたら金持ちにのみに与えられた特権階級の反抗だ。

引きこもりのガキを持つ悩める現代のパパママ達にオレの育った地獄のようなあの家を、あの生活を勧めたいね。

学校が辛い?勉強が嫌だ?独りぼっちが寂しい?それがなんだってんだよ。ハッキリ言っておくが押し付けられた貧乏の方がその数億倍も辛い。

引きこもりってのは自分の部屋があるんだぜ?テレビもエアコンも今ならpcまで与えられてる!しかも明日の夕飯の心配もない!誰にも殴られない!まるで王様じゃねえか!何を悩むことがあるのかー

4歳くらいの頃だったか、母が急に荒れ始めた。いや、狂っていたと言ってもいい。

今を思えば育児ノイローゼの一種もあったのかもしれないが、オレや兄貴に暴力を振るうようになった。

顔が気にくわないと引っ叩かれ、酔った母親に馬乗りでゲロが吐くまで殴られたり、ハンガーで全身ミミズ腫れになるまで殴られたこともあった。

一番酷いときは鼻の骨を折られるまで殴られた。

 

オレは何で暴力を振るわれているんだ?世の中の連中がいう殴られて当然な人間なのか?それとも神様とやらはオレはサンドバッグとして生を受けたとでも言うのか?

 

ージョーンクロフォードの伝記映画「愛と憎しみの伝説」、原田美枝子の「愛を乞う人」を観たことあるかい?まさにあの壮絶な虐待そのまま。

あれが子を思う愛情表現だって?

んなわけねえだろ。

親からの暴力に愛情を感じる奴なんてこの世にはいない。

理不尽な暴力からは憎しみしか生まれない。そんなに憎けりゃなんでオレをこのクソみたいな世界に産み落としやがったのかとね。ー

 

ある日、知らない男が家にやってきて母はオレと兄貴を弟だと言って紹介した。

地獄は暴力だけでは終わらなかった。

その見知らぬ男によってただでさえ無い居場所を奪われちまった。

 

しばらく外で遊んでこいという母の命令に、殴られたくない兄は素直に応じたが、オレは嫌だと泣き叫び反抗したものの、髪の毛を捕まえられて裸足のまま外に放り投げられた。

泣き叫ぶオレを見下ろしながらニヤニヤと憐れんだ目で見下ろすあのクソ野郎の顔は今でも覚えてる。

まさにクソみたいな大人とは奴らのことだ。

ーこの頃に植え付けられた大人への怒りと反抗心は、小学5年生になったときに大問題を引き起こすことになるのだがそれはまた別の機会にー

 

母は徹底的に男にだらしなく、母の男遊びはオレの知る限り、オレが東京へ出るまでの18歳、母が38歳になるまで続いていた。

母は子供の頃から男にチヤホヤされてきた典型的なマリーアントワネットタイプの性格極悪女で、世界で一番可愛いのは自分。

我が子よりも自分が最優先、常に愛情は自分に向けられていないとキチガイのようにわめき散らす。

ライバルは松田聖子とマドンナで、自分が夢見る16歳だと真剣に思い込んでるんだから、我が母親ながら相当イカれてる。

 

ー生まれて最初に身近に接する女性は誰もが母親だ。

そんな母を見て育ったオレは40になった今でもどこか女性を信用しきれない部分がある。

特に男からチヤホヤされるようなタイプの女性は今でも苦手意識があって.

いわゆる、日本人が大好きなパッチリ二重、フワッとした柔らかいロングヘアー、

小柄で童顔。この手の女性に一切興味を持てない。

それはあの頃の母を思い起こすからにほかならないー

 

暴力は小学生になってからも続いていた。聞き分けのいい兄は暴力から逃れ、母の暴力はオレのみになった。

その頃になると、みんな家族の筈なのにどこか他人のようなよそよそしさを感じるようになっていた。

 


オレは一体何の為に生まれてきたのか?

 

この頃に受けた傷は今もオレの心に暗い影を落としている。

 

母は最初にして人生最大の敵との出会いだったのかもしれない。

 

しかし、そんなオレにも唯一の味方が存在した。

今のオレの人格形成はその人物による影響が強い。

生きるとは何か、自分らしさとは何か、自然を愛する心、人間の馬鹿らしさ、自由に生きることの難しさ…全ての基礎はその人との奇妙な共同生活から始まったのだ。

Death or glory

人に言われせればオレは頭がいいらしい。

またある人に言わせればカタワと思えるほどひどく頭が悪く、またある人からは良い人に見えて、別の人から言わせりゃトンデモなく嫌な野郎だそうだ。

 

結局、他人から見る自分というのは誰しもが酷く曖昧で、人の都合のいいように映ってるだけか、人の解釈を超え、無理やり”それらしい人物”にされてるだけかもしれない。

 

みんなが思っているオレの人物像はある意味では正しいのかもしれないし、全て間違っているのかもしれない。

自分がどんな人間かなんて本当は自分自身でもわかっちゃいないしな。

 

負け犬として生まれ”自由に生きることが最も不自由”な日本で苦しみ

 

「30までには死んでるか塀の中。」

 

「引き取り手のいない粗大ゴミ」

 

などと言われながらも、偶然か必然か運良く40年生き伸びてこられた。

 

世間から言わせりゃオレは完全に負けらしい。だが、世の中からどれだけ負け組扱いされようがオレが負けを認めなきゃ負けじゃねえ。

 


ー栄光か死かー

 


生きてるならまだ勝負は終わっちゃいない。

そうやって必死にもがきつづけた40年、自分自身の半生を振り返りつつ、改めて自分が何者なのか自身と向き合い、また君達が知らないオレの真実をほんの少しだけこっそり伝えようと思っている。


さっさとこの世をおさらばしたあの野郎、40という若さで亡くなったしまった恩師、全てを教えてくれた祖父、生命を燃やして必死に生きる君達へ捧ぐ…