Naughty Kid 怒りの日

Anger is an energy, it really bloody is

Aggravation place

オレの住んでた地域は川沿いで貧乏長屋や同じ形をしたボロアパートが点在する妙な住宅地だった。

杉林が近くにあって、夜は街頭もなく真っ暗、坂だからけの山道がいたるところにあり、家の目の前は広大な田んぼが広がってて夏はカエルの大合唱を聴きながら寝たもんさ。

そこにはあらゆる貧乏人達が流れ着き、ひしめき合っていたわけだが、時はバブル全盛の日本国民総小金持ち時代。

あの時代に貧乏人とくりゃ出稼ぎに他の国から来た連中や、訳ありの人達さ。

 

どっからか夜逃げしてきたらしいなんて人もいたし、逆にある日荷物一切合財置きっ放しで消えた一家もいたっけな。毎日きったねえパジャマ姿で奇声を発してるジジイもいりゃ、精神疾患による障害者年金で暮らすおばさんがとなりに住んでたり、少し離れたところには近所にあるロシアンバーのおばさん、フィリピン人、ブラジル人、タイのニューハーフなんてのもいたし、高校生になるまで知らなかったが隣町には中国人が住む集落もあったらしい。

小さな田舎町ですら”その手の夜の店”が賑わっていて”訳ありな人達”はそういう店で働くか言葉を交わさなくても仕事ができる工場の単純作業なんかしてる人が多かったな。

 

今日に至るまでオレは”ガイジン”という言葉を口にしたことはない。

日本人とそれ以外で区別するために使われてるらしいがガキの頃から日常の中にいて同じように生活してりゃ区別なんてする意味がわからない。

そもそもうちのじじいだってどこの人かもわからねえわけだし、日本人が口にする”ガイジン”はオレにとっちゃ”隣人”だったわけだ。

 

母はその辺の連中と仲が良くて、時々うちにも遊びに来てた。特にタイのオカマちゃん達とロシア人のおばさんは可愛がってくれたような記憶がある。

 

恐ろしく香りの強い香水プンプンさせてる上に、ゴテゴテと塗りたくったとんでもねえ厚化粧!ハグされる度に鼻がひん曲がる!ってくらい強烈で臭えのなんの!

人生で初めて感じた夜の匂い、水商売の匂いってやつだ。

今以上に水商売や外国人に対する偏見が強いあの時代だから、その孤独は計り知れないだろう。ましてやあんなクソ田舎に来るくらいなんだから何かあった人達に違いない。

記憶してる限り、みんな温かくて感じのいい人達だったな。

お喋りが本当に好きでね、あのやかましさが何にもない家を少しだけ別の空間にしてくれた。

典型的な小学生に落ちついた兄貴はガイジンが来たーって怖がってた。

オレの前じゃ一丁前に威張ってるくせにでけえ図体して笑えるぜ。

 


ー母もまた相手がどんな奴だろうが誰とでも仲良くなるような人で、オレにとっちゃ悪魔か鬼か、この世で最も恐ろしいモンスターだったが、周りからは自由奔放で裏表の無い性格が天真爛漫に映っていたのかもしれない。ー

 

うちが唯一良かった点といえばどんな人も区別/差別しないという教育が徹底されていたことだ。

 

この”どこよりも豊かで平和な国:日本”で長年まかり通ってる頭の悪すぎる三原則

 

“知らない人とは話しちゃいけない”

“ついていってはいけない”

“信用してはいけない”

 


ーこのクソみたいな教育を受けて育った連中は可哀想だね。半径数キロ程度の狭い世界でしか生きていけない臆病者が多くてビックリするよ。しまいにゃ挨拶もろくにできない大人が溢れかえっちまった。ー

うちにはそれがなかった。

オレ自身もすっかりお喋りが大好きな人間に生まれ変わっちまったもんだから知らない奴ってだけで話したくなる。人それぞれ誰だって自分とは違うストーリーを持ってるだろ?

オレはそういう話を聞くのが好きなんだ。

あんたが語りべとなりあんたの話を聞かせてくれりゃ、オレから言わせりゃ誰もが主人公さ。武勇伝のような活躍した話じゃなくても構わない。

隣にいる奴がオレとは全く違う人生を歩んでるってだけで面白えじゃねえかってね。

ー海外の連中からよく言われるよ。

“お前以外の日本人は何故シャイなんだ?”

実際のところ日本人はシャイじゃねえ。いや、確かにシャイな奴は多いが他人を信用しないように生まれたときから教育されてるだけだ。他人の顔色うかがってイエスともノーとも言わないのが正しいだなんてどうかしてるよ。

本心をひた隠し“忙しいから”とか平気で嘘つくしな。

空気を読むだとか社交辞令とかどこで覚えるのか知らねえがそんな常識に従う気はないね。まあ、そんなものに従ってる退屈な連中はおよびじゃねえけど。ー

 

学校という集団生活の中で生まれる”仲良しグループ”ってシステムも大嫌いだった。大体人が集まると意味のない秩序やルールが生まれ、リーダーやらなんやら上下関係ができたり、友達同士が組織に変わった瞬間みんな人が変わっちまう。そいつはもう友達とは呼べない。友達に上も下もないだろ?

オレ達は猿じゃねえ。

だからオレは常に色んな奴らといた。

趣味趣向が一緒じゃなきゃ話もできないなんてアホくせえし退屈だね。

色んな性質を持った連中と関わることで知らないことを学ぶのさ。

教育的現場ってのはわかりやすいように個性を削ぎ落として統制することじゃない。色んな個性がぶつかることで新しいものを生み出すきっかけにだってなるんだぜ。

 


一方で少しずつオレ達は成長への第一歩を進み始めていた。

“反抗期”の訪れさ。

 

平成の時代到来から2年、小学五年生になる頃には学校でも家でもなく、自分達だけの場所が欲しくなり寂れた廃工場を”秘密基地”として集まるようになった。くすねてきたタバコやエロ本かなんか持ち寄ってさ、ありゃあ最高に楽しい思い出だったな。

オレの世代ってのは”スタンドバイミー”や”グーニーズ”に思いっきり影響を受けた世代でね、誰しもがこんなことをガキのころやってたんじゃねえかな?

ー80年代から90年代初頭の田舎のガキの娯楽っていえば自然の中で遊ぶか、ファミコンか漫画か映画くらいなもんでさ、オレ達は映画が大好きだった。

今と違ってレイティングに寛容でゆるい時代だったからホラー映画もちょっとエロい映画もゴールデン洋画劇場や水曜ロードショーなんかで堂々とやってたんだよ。

バタリアン」のテレビ初放送の次の日なんてもうお祭り騒ぎでさ、クラス中みんなで「脳みそくれ〜!」なんてやってたっけな。ー

色んな奴らと遊んでいたが結局オレの”遊び”についてこれる奴がいなくて気づけば周りは尖がった親友達5人(こいつらとは結局18歳まで一緒にいることになる。)

で毎日のように廃工場で集まっては遊ぶようになった。

 

みんなそれぞれが強烈な個性を放つ奴らで、反抗期のガキらしさ全開”アンチ大人”を掲げてた。

バラバラの個性だが全員共通していたのは貧乏で居場所のない連中だった。お互い何も言わないが家庭に少なからず問題がある連中だったと思うよ。でなけりゃ秘密基地に入り浸る必要はないだろ?

 

オレ達はいよいよ学校のシステムの押し付けや矛盾にムカき始めてきた。クソ寒いのにマフラー禁止、髪の毛が少しでも耳にかかっただけでその場で切らされる、家から学校まで歩いて50分の距離なのに自転車も禁止。

記憶が曖昧で思い出せないがほかにも意味不明な校則という名の法律が山ほどあった気がする。

 

何故?という疑問に誰も答えようとせず、理不尽な校則にも、決まりだからと疑問を持たずに従ってしまえる連中にもムカついてた。

オレ達は行き場のないフラストレーションを抱えて爆発寸前の状態さ。

 

ーガキにはガキの世界があり、ガキなりの悩みをそれぞれ持ち、大人には及びもつかないことを考えているもんさ。

誰だってガキの頃があったにも関わらず殆どの連中はすっかり忘れて”所詮子供だ、言うこと聞いとけ”なんてつまんないことを言い出す。

誰も耳を貸そうなんてしやしねえ。ー

 

オレ達はなんとか大人をギャフンと言わせたいと思っていた。

特にあの忌々しいクソ学校。

反逆のタイミングを伺いながらオレ達は静かに闘志を燃やしていた。

 

時はバブル崩壊前夜。

それはこの国の“大人”が最も増長し、日本はNo.1だというひと時の幻想に浮かれていた時期だった。