Naughty Kid 怒りの日

Anger is an energy, it really bloody is

Rise Avobe

ー1994年、遂に日本は崩壊した。

バブルという日本全国総馬鹿化したふざけた乱痴気騒ぎは終わりを告げ、戦後最大とも言える未曾有の危機が訪れた。

実際、バブル崩壊がいつ頃かはわからないが、オレが記憶する限り14歳のあの時、オレの足りない頭でもハッキリと認識できるほどこいつはヤバいって状況が、世間に不穏な空気が流れていることが肌で感じ取れた。

それが1994年だった。

バブルの恩恵なんぞ一ミリなかったうちにとっちゃ日本がいくら崩壊しようがさほど違いはなかった。

まあ、偉そうに踏ん反り返ってた金持ち達が一斉に頭を抱えてるなんてざまあみやがれって感じだったかもな。

 

一方でオレはヒトミちゃんのオーリーを見たあの日からスケボーがどうしても欲しくて暫くおとなしくし勉強やら部活に打ち込んでた。頑張りゃご褒美にありつけるかもしれないって淡い期待があったからな。

オレの周りであの”クールな板”を持っていなかったのはもはやオレとサカエくらいなもんですっかり置いてけぼりだった。

中二の時のオレの学力は最高潮で、信じられない話だが、先生からも三者面談でかなりいい高校にいけるんじゃないか?何て言われてたんだぜ。

ーよし、そろそろ交渉の頃合いか?

ある日オレは意を決してじじいに交渉してみた。

 

「じいちゃん、実はスケボーが欲しいんだよ。オレ頑張ったよな?悪さもしてねえし成績だって見てみろよ、あと少しでオール5だよ!こないだオレ、スピーチコンテストで優勝して賞状も貰ってきただろ?な?いいだろ?」

 

ーこの頃のオレの特技と言えば走ること、そして物を書くことだった。400メートル県大会で3位になったこともあったが、人生で初めて一番を取ったのは校内スピーチコンテストってやつだった。じじいのテレビ嫌いをヒントに、メディアを面白おかしく徹底的にこき下ろしたら自分でもビックリなんだが、どういうわけか表彰されちまったんだよ。内容は覚えてないが我ながらいい出来だった記憶がある。子供ながらの視点ってやつで描いたメディア論だったかな。ー

 

オレはああだこうだ言って当時のその手の雑誌、”ファインボーイズ”とか”boon”とかあんなのを見せて、こんな感じの服着てスケボーしてえとか何とか駄々をこねた。

 


じじいは即答で

「なんだこりやあ?お前アメリカのガキの真似なんか金使ってやるもんじゃねえぞ。」

 

「じいちゃん、これがトレンドってもんだよ。頼むから買ってくれよ!」

 

「なーにがトレンドだよ。周りに流されてないでてめえってものを持ってよ。」

ダメだこのじじい…

オレの好きな物なんて生まれてこれまで一度でも買ってくれたことねえんだよ。

またしてもオレの願いを聞き入れてくれなかった…散々オレを働かせといて褒美の一つもなしとはあんまりだ。

それでもオレは諦めなかったよ。

じじいも頑固だが、オレも負けじと頑固でしつこいんだよ。来る日も来る日もじじいと顔合わせる度にスケボー買ってくれよ!と交渉し続けた。

 

ー1週間を過ぎたころ、遂にじじいは折れた。

 

「そのスケボーってのはどこに売ってんだ?」

 

「東京だよ!じいちゃん!買ってくれんの?!」

 

遂に来たぜこの日が!

まさかこのじじいが頭を縦に振る日が来るとは!

 

ーいや…まてよ。

こいつは何かおかしくないか?あのじじいはどんな時でも物を買ってくれたことはなかったし、一度NOと言ったら一生、死ぬまで曲げねえようなじじいだぜ?こいつは裏があるに決まってるだろ?

 

案の定、予想は的中した…

しかもじじいの口から出た言葉は耳を疑うものだった。

 

「母さんが買ってくれるとさ。良かったな。

次の日曜、3人で東京に行くぞ…」

 

ーーーーーーー

 

母親とは三者面談以来、久々に顔を合わせた。ハッキリ言って気まずかったし、急に母親らしいことをしようとするこの悪魔が妙に気持ち悪かった。

3人で電車に揺れられること数十分、気まずい沈黙に耐えられなくなってじじいになんか喋れよ何て促されたのを覚えてる。

じじいもオレも沈黙ってやつが大嫌いだったから一人ででも喋り続けなきゃ気が済まない性格なんだが、このトリオは天地がひっくり返っても盛り上がることはないぜ。

母はじじいを嫌い、オレは母を嫌ってる。

はたから見たら人でも殺しに行くのか?ってくらいピリついてたはずだ。

 

じじいが口火を切って母に

 

「最近、働いてるんだって?」

 

母はそっけなく

「まーね。」

 

母は母で

「学校はどうなの?」

 

オレはそっけなく

「退屈だよ。」

 

とまあこんな具合で最悪の東京ツアーがスタートしたわけだが、オレはスケボーが買えるならどんなことでもしてやるって決意だったから、ろくに考えもせずにじじいの提案を受け入れた。じじいの目的は恐らくいい加減いがみ合いはこの辺にして、親子三代話し合おうじゃねえかってことだったと思う。

しかしまあ話し合うにしちゃオレ達の抱える問題はいささか根が深すぎた。

こいつが一生付いて回る軋轢なのはわかりきっていたことだが、じじい自身、文字通り”自分で蒔いたタネ”がこんな形で成長してしまうとは思ってもみなかったんだろうよ。

東京へ仲良く買い物すりゃ全て丸く収まるわきゃねえが、じじいはじじいなりに、母は母なりに自分の置かれた立場ってやつの再確認は少なくともあの豚小屋よりはできるはずだからな。

 

池袋についたオレ達は真っ先に目的のスケボーを買いに原宿へ向かうことにした。

じじいから言わせりゃ渋谷や原宿ってのはど田舎のイメージがあるらしく(50年代、60年代の頃はマジで田舎だったらしい)そんなとこに目当てのものが本当にあるのかってやたら半信半疑だった。

上野にもあるだろ?とじじいのホームタウンにやたら行きたがってうるせえのなんの。

じいさんよ、今は1950年代じゃねえんだよ。

エルビスが死んで何年になると思ってんだよ!

ーーーーーーー

 

ー  実際この頃の原宿は最高だった。

kawaiiカルチャー”なんてものはまだ存在せず、竹下通りはロンドンのカムデンタウンを模したテント村があってさ、80年代に大量にあったタレントショップが梅宮辰夫の店以外ぶっ潰れて、代わりに古着屋に様変わり。

田舎者をとっ捕まえてはバッタもんの服を買わせるっていう悪徳キャッチ連中が堂々と通りの真ん中でまるで門番みたいにいたりして笑えたな。

 

80年代は小綺麗なDCブランドで固める奴らがトレンドだったのが、90年代に入ってからストリートは一変した。

ニルヴァーナの世界的ヒット、グランジムーブメントの余波により改めてアメリカのストリートカルチャーが東京に押し寄せてきた。

ヴィンテージのリーバイスにネルシャツ、小汚いナイキのスエットやスニーカーに何万も出して買う奴だっていたんだぜ。

90年代は高級ブランドのセットアップで固めるより、汚ねえヴィンテージの古着が持て囃されたんだよ。

更に大人が弱体化した分、若者が主役になりつつあった。

バブル崩壊はストリートの転換期でもあり、街で彷徨くのは大学生から中高生と低年齢化していった。

 

当然の如くアメリカは西海岸のスケートカルチャーも改めて形を変えて日本に入ってきたってわけだ。今の若い連中もスケボーやってる奴たまに見かけるが、昔とは明らかに違うね。

当時は音楽カルチャーとストリートはいつも連動してた。

スケボーやってる奴でくだらねえJ-popを聴いてる奴なんてマジで一人もいなかったね。

つまりさ、西海岸のハードコア御三家、Black Flag、Circle Jerks、Gang greenなんかは当然みんなおさえてる様な連中がスケボーやるわけ。

意味もわからずスーサイダルのキャップをかぶってる奴もいなかった。

オレ達田舎者の間じゃまだハードコアなんて言葉は浸透してなくて当時はあの辺の音楽を総称してスケートロックなんて呼んでた。

 

そしてオレのお目当てってのが、当時、ラフォーレの近くにあった”ストーミー”ってでっけえスケーターショップだ(今もあったっけ?)

ヒトミちゃん曰く、初心者とりあえずここ行きゃ一式揃ってなわけで、店に入ってあの”クールな板”を物色、気を使ってあまり高くない板の前で右往左往。

じじいに早くしろよ、いつまで睨めっこしてやがんだとせっつかれて妥協に妥協を重ねてようやく板を買った。

 

じじいは明らかに原宿って街に居心地の悪さを感じてイラついてたっけ。

あのじじいはもっとラフで小汚いやかましい場所、華やかな都心より裏街道みてえなところが好きだった。陽の当たらない、危うさのある場所さ。

ーオレ自身大人になってから、じじいと同じように華やかな場所よりアングラな危うい住人のいる世界、ロンドンでいうなら南部あたりが大好きになったわけだが、今ならその理由がわかるよ。

そういう場所にいる連中といると、より人間的でいられる。生きてるって実感があるんだよな。

奴らは文字通り一生懸命生きてる。

自分らしくいられる感覚があるんだよ。ー

 

「上野行こうぜ、上野!」

 

そう言うとじじいは待ってましたと言わんばかりに目を輝かせてオレ達置いてけぼりにする勢いで歩き始め、上野に着くなり駆けつけ一杯ってなもんで、小学生の頃目にしたあの光景  ー小汚ぇ居酒屋で飲むってあれだ。

 

あの時は母もつられて飲み出したもんだからヒヤヒヤしたぜ。

いや、オレ達は3世代揃って酒癖が悪いんだよ。

自他共に認めるってやつでさ、この頃はオレも気づかなかったが、この手のキチガイ(オレ含め)はアルコールが入ると手がつけられない。ドラッグよりたちが悪いんだよマジで。

うちの母親なんて泥酔したまま小さいオレと兄貴乗せて運転して田舎じゃありえない交通渋滞起こしてるんだぜ?しかも次の日には何一つ覚えてないって災害以外の何物でもないだろ?

 

「ママも高校生の頃たまに東京に来てたんだよね。」

 

気持ち悪い話だが、何故か母親は自分をママと呼ぶ。もちろんオレも兄貴も一度もママなんて呼んだことはない。呼ぶわけねーだろ?

奴は一般のママってよりジョンウォーターズの”シリアルママ”の方だぜ?ママなんて言葉不釣り合いにもほどがある。

 

「ふーん。金もねーのに何しに?」

 

「RC(サクセション)のライブ、あと服も買いに来てた。お金は男が出してくれてたし。」

 

中学に上がって以降、母は事あるごとに、まるで武勇伝のように男を利用する話をするようになった。

それがあの人の趣味であり、ライフスタイルの一部であり、生きる術ってやつなんだろうことがようやくあの歳くらいに理解できたが、思春期真っ只中のオレにはこいつを聞かされんのが嫌で嫌で仕方なかったよ。

なんせ女の子に興味を持ち始めた頃に現実を突きつけてくるんだからたまったもんじゃねえよ。

まあ、お陰で母のようなタイプの女に騙されるようなことは無かったしある意味感謝だよな。

ただ、ガキの頃から恋愛に感しちゃどこかドライになっちまったけど。

こんな極悪な母親に騙されてきた男がごまんといるのかと思うと警戒心が無意識に植えつけられるのは必然だろう。

まあ、この時は恋愛が何なのか全くわからなかったが。

 

聞けば母は東京に出たがってたらしい。

チャンスは二度あって、一度目は松田聖子を輩出したアイドルスター誕生への出場が決まった時。

これは母が酔う度に聞かされる耳ダコの話で、恐らく人生の中で一番大きな転機だったはずだ。

難関をくぐり抜けいざテレビ出演その日に学校サボって東京へ行こうとした当日、じじいに阻止された。テレビ嫌いのじじいは身内を芸能なんてクソの吹き溜まりみてーなものに売りたくなかったはずだしな。

母親はある意味、自分の価値ってもんがルックスのみであることをガキの頃から理解していたんだろうけど、てめえで応募して誰にも相談せずたった一人でテレビ屋に乗り込もうとしてたんだからどうかしてやがる。

しかしまあ、こいつが血筋ってやつなんだろうな。ジジイもオレも母も、行動するとなると悩むなんてことは一切しない。

 

ーこの頃はわからなかったが、オレ達一族は物事を仮定するのを徹底的に嫌うんだ。

“どうせこうだ””きっとこうだ””こうに違いない”

バカめ未来なんか誰にも見えるわきゃないぜ。

人生ってのは用意された塗り絵じゃない、白紙だからこそ描けるってもんだろ?ー

 

そして、母の2度目の東京行きは日体大の推薦入試を受けるという話があったそうだ。

これまたジジイが阻止しちまった。

理由はわからんがろくでもない目に遭うかしでかすか、目に見えてあのジジイにはわかってたんだろうよ。

オレも知らない、誰にも言えないような馬鹿らしいエピソードは腐るほどあったはずだしな。まあ、オレから言わせりゃそんなもん知りたくもねえ事実だけどな。

 

将来どうしたい?夢はあるのか?目標は?

確かこんなことを聞かれた気がする。

思春期真っ只中、何処へ進学するかどうかなんてチラホラ学校でも話題になることも増えてきた時期さ、展望ってやつがあるのかどうか知りたかったんだろうが、オレには何のプランもなかったしぶっちゃけこの馬鹿らしい状況の中でいかに人生楽しむかってことしか考えてなかったよ。

そりゃそうさ、世の中道行く人全員がこの世の終わりって面して歩いてんだぜ?”未来への希望”なんてものがどこにあるってんだよ。

誰がそいつを見せてくれる?何処へ行きゃいんだよ?道を指し示す指標なんてものはバブル崩壊後の日本にはなかったのさ。

敗戦後の焼け野原にも似た状況だろうな。

 

「高校へは行くんだろ?」

じじいがそういうと

 

「多分ね、働きたくねーから」

そう答えた。

 

ーオレは究極の労働嫌いだ。仕事に生き甲斐なんてものを感じたことは一切ないし、てめえの会社ならまだしも誰かにこき使われて生き甲斐だと言い切れる奴なんて理解もできない。労働は生きる為に銭を稼ぐための手段であり、金はただのツールでしかない。この考えはずっとガキの頃からあった。このツールを有効活用してる奴なんているとは到底思えなかったからな。ー

 

「ふざけやがってこの野郎…」

じじいはバツの悪そうな表情を浮かべ笑った。

 

明くる日、オレは仲間たちをいつもの駐車場に集めて買ったばかりのスケボーを乗り回してた。最高に楽しかったな。

オレは自分が心から欲しいと願ったものは心底大事にする。基本的には興味を失うことなんてほとんどないんだよ。

欲しい物が買ってもらえない耐え難い生活を何年も強いられたら必然的に物を大事にすることが染み付いちまうのさ。

 


すると高校生が一人、オレ達のところへ近づいてきた。

 

「やべえ…ありゃあ関田さんじゃねえか?」

オレは相棒のトシに言うと

 

「あの人はスケボーくらいでガタガタいう人じゃねえから大丈夫だろ…多分…」

 

この時期は世代間におけるセンシティブな問題がオレ達の世代にだけ起こっていた。

 

上の世代の人達は前時代的なヤンキー文化を引きずってる人も多く、”新世代のカルチャー”を受け入れられない連中が多かった。

 


なんだその髪は!その格好は!なんてニグロパンチやリーゼント頭の”先輩達”によく言われてたんだよ。

人の格好ってのは本人の自由だろ?何で人にとやかく言われなきゃいけねんだ?だがしかし、どういうわけか理解できないものは全否定、それどころかそいつをてめえの都合いいように他人様の個性を削ぎ落としてやれなんて奴がどこにでもいやがる。そんな権利誰があるってんだよなあ。

 

別にオレ達は”新世代”なんて意識はなかったよ。勝手に連中が新しい何かだと思ってただけなんだろ。そいつが悔しかったのか何なのかわからんが”指導”を貰ったことも少なからずあった。

なもんで先輩方に出くわした時は毎度肝を冷やすハメになるわけだ。

 


近づいてきた関田さんは開口一番オレ達に聞いてきた

 


「よー!お前ら!アメリカのパンク好きなのか?」

 


「はあ…パンクって何ですか…?」

 


「それだよ、それ!ブラックフラッグ!好きなんだろう?」

 

冷たいアスファルトに置かれたラジカセからRise Above がけたたましくて鳴り響いていたあの日、オレは初めてパンクという言葉を耳にした。

そいつがオレの人生の全てを一変させるなんてこの時は思いもしなかったが、時代の変化と共に、オレの中で急速に何かが変わり始めていた。

Changes

オレの目の前に姿を現したのは意外な人物であり、今オレに必要な”最も信頼できる大人”だった。

 

「久しぶり!ずいぶん元気そうじゃないかー!」

先生、小川先生じゃねーか!

懐かしき我が恩師!あの屈託のない笑顔!

しかしまた何でまたうちの豚小屋に来たんだ?!

どうやら完全にオレをコントロールする術を失った母が困り果てた挙句、先生に相談していたらしい。

 

先生、会いたかった、本当に会いたかった…

辛くて、悔しくて苦痛の毎日だったんだぜ?

 

「中学校は面白くないか?何が気にいらないのか先生に話してみてくれるか?」

 

「先生、中学校なんて自由もなにもない軍隊みたいなところだよ。

オレは”お国の為に”働く気なんか更々ないのに奴らの横暴ったらないよ。酷いだろ…」

 

次いで母は

 

「先生、優しく言っても聞かないんだよこいつは!厳しく叱って!」

 

残念ながらこの素晴らしき我が恩師、小川先生はそんなことに耳を貸しはしない。

どんな時でも教え子の味方であり続ける男なんだよ。

 

ー落ち着いてください、この子は決して悪い子じゃないー

こいつは先生のキャッチフレーズさ。

未完成な子供を悪と決めつけることは絶対にしないのが先生の素晴らしさなんだよ。

まあ、生徒数の少ない田舎だし、インターネットもないあの時代だったからこそ成立したのかもしれないが、しかし彼は自分の教え子を最後まで信じることをやめない人だった。

 

「先生言ったじゃねーか、クソみたいな大人の言うことは聞かなくていいって。」

 

すると先生は笑って

「そっかーじゃあ半分は先生のせいかもしれないなあ…なら今信用できる大人は誰なんだ?」

そいつは決まってるだろ?先生とじじいだけだよ。他に誰がオレの言葉に耳を貸してくれるんだ?

 


ー 僅かな沈黙の後、先生が口を開いた

 

「…なら、しばらく家に来てみないか?」

 

マジかよ…!先生の思いがけない提案にテンションが上がった。信頼できる最高の大人としかもしっかりした教育が受けられる!

この豚小屋ともおさらばだ!

…がしかし、そう簡単に物事が上手く行くわきゃない。

当時、先生には3歳になったばかりの息子がいて大変な時期だった。

教え子とはいえ他人のガキを預かるなんて無茶過ぎるし、母もその提案には目を丸くして驚いていた。

 

「お母さん、どうです?転校はできないにしても一度環境を変えてみては?」

 

「いや、いくらなんでも先生に面倒見てもらうことはちょっと…」

バツの悪そうな母の顔ときたらなかったな。先生にはこの悪魔の無責任さが何となくわかってたらしい。

しかも明らかに我が偉大なる恩師に見透かされていた。

全くざまあみろって気分だったな。

 

「そういえばおじいさんはどうしてる?去年、ユニークなおじいさんのことを作文に書いただろ?おじいさんなら信頼できるんじゃないか?おじいさんと話してみたらどうかな?」

 

「いや…祖父はちょっと…預かってくれるかもわからないし、あまり賛成できないかも…」

益々、母の顔は強張りはじめた。

この時に確信したんだか、母の最大の敵は間違いなくじじいだった。

確執というものはじじいからは感じなかったが母からはありありと出ていた。

 

ー後になってわかったことだが、この時、母はオレをじじいに押し付けられるってことに内心安堵していたらしい。じじいがじじいソックリのオレというお荷物を押し付けられるなら因果応報、それも憂さ晴らしの一つと考えてたのかもしれない。ー

 

父親が帰ってきて、家族全員で先生を含め話合いとなり、先生はあくまでも中立な立場ということで話を始めた。

この家の中でオレの味方となる人はいなかったし、最悪な状況へ転じる可能性もあったわけだ、味方欲しさにオレは真っ先にじじいを呼ぶことを要求した。

この家ではオレに対してフェアであったことは一度だってなかったからな。

 

ーーーーー

 

じじいはすぐさまやってきた。

偉そうに遂にオレの出番っかてな具合でさ。

先生から事情を聞いたじじいは返す刀でこう即答した。

 

「よし、わかった。じゃあオレが面倒みる。今すぐ準備しろ。」

 

「ちょっと待ってよ、じいちゃん!今からって…もうそっちに引っ越し?!」

 

「決まったことなんだから今やろうが明日やろうが一緒じゃねえか。さっさと支度しろ。」

 

じじいのお決まりのパターン。

悩んでる暇なんかねえ、思った瞬間がやる時だ。今やれ、すぐやれ。

うちのじいさまってのは何も考えない能天気なお気楽じじいに見えるだろ?

実は全く違うんだよ。

あの決断力、判断力、行動力ってのは全てが研ぎ澄まされた動物的とでもいうか、直感に裏打ちされもので、その代わり不可能だと思ったらあっけらかんとNOを叩きつける。

要するにあのじじいの世界にはYESかNOか、白か黒か二つに一つ、中立やグレーゾーンなんて曖昧ないものは存在しない。

実にシンプルだろ?人間シンプルが一番ストレスなくていいんだよ。

ただし、こんな自由な振る舞いで無傷でいられるわけはないが…

 

他人事って様子の兄と父、心配そうな母、そして笑顔で送り出す先生の顔を眺めながらオレはジジイのジープ(クソオンボロのパジェロ)に乗り込み、家を後にする事となった。

 


「頑張れよ!」

 


先生の声が耳にこびり付いてしばらく離れなかった。

ーーーーーーー

久々に来たじじいの家、築何十年だ?

木造二階建て、地震が来たら一発で潰れる耐震強度マイナスとも言えるカビくせえ家。

庭にはニワトリが何匹もいて、生い茂った雑草に囲まれた、良く言えば”古き良き昭和”の家、悪く言えば”ただの廃屋”ってとこだ。

風呂は当然シャワー無し、ヒノキでできたクラシックな浴槽。

豚小屋よかまだいいが、学校まで山道歩いて50分もかかるしクソ学校は自転車禁止だぜ?こいつは参ったね。

まるっきり山籠りの修行僧だ。

家に上り込むと心配そうなバアさんを尻目に、じじいはオレを部屋に案内した。

 

ーじじいの”書斎”誰も入ったことない開かずの間。生まれて初めて充てがわれたオレ専用の部屋だ。

ガラっと引き戸を開けるとじじいの家特有のカビ臭さに加え、やけに鼻につくインク臭さ。そして目の前に広がる本の山。

こいつにはビックリしたな。

本の数にも驚いたが、それ以上にじじいの有り得ないほどの読書量。

その殆どが日本の文芸作品だ。

遠藤周作島崎藤村、芥川とかその類い。

しかもオレの大好きな江戸川乱歩大全集まであるじゃねーか!ワオ!マジかよじいちゃん!

こいつは正におあつらえ向きだ。

じじいがこれ程までに読書好きとは知らなかった。

ーいや、果たして本当にじじいは読書が好きだったのか?このとてつもない数の本、それはじじいが”日本人”になろうともがき苦しんだ痕跡の一部だったんじゃないか?今になって考えてみるとそう思えてくる。真実は本人のみぞ知るだが。ー

そういや、その本の山に紛れてこっそりヒトラーの”Meinkanph -我が闘争-“かあったんだよ。同胞達を大量虐殺した謂わばじじいにとっちゃ最も憎むべき相手だぜ?

ユダヤ教徒にとっちゃ燃やしたくなるような最低の本だろ?ところがこのじじいにはナショナリズムも同胞観念も持ち合わせてないわけだ。”母国”が存在しないじじいにとっちゃむしろ敵の方に興味があったんだろうよ。

そいつを読んで何を感じ、何を思ったのかは知らないが、その頃のオレにとっちゃヒトラーなんてのはただのチョビ髭のおっさん。さあこれからどうしたもんかと頭を悩ませていた…

 

「じいちゃんさ、今度オレ陸上の大会に出るんだよ。400メートルの1年代表。観に来なよ。」

なんだかんだ言って心配してるであろうじじいに中学の状況を伝えるってのもがあったが、じじいは一度として学校に来たこともなければ、行事にも参加したことがなかった。何となく人前に出るのを避けているようなそんな印象だった。

 

「そうか、オレは行けないけど頑張れよ…」

その時のじじいの横顔はやけに悲しそうでね。

差別的な目に遭って欲しくなかったというじじいなりの気遣いってやつだろうが、しかしじいさんよ。

オレはとっくに差別ってやつには慣れっこなんだぜ?生まれた時からこちとらマイノリティじゃねえか。人種問題以前に貧乏人ってラベルが貼り付けられてるからな。

「自分らしく生きることを説いてきたあんたが自分を恥じることないだろ?」

今のオレならそう言えたかもしれないが、13歳のオレには何も言えなかった。

そもそもこの時はまだオレはじじいは日本人だと信じて疑わなかったから。

なんせ、母に一度だけじいちゃんはガイジンなのかと聞いてボコボコにされたことがあったわけだし、一切考えないようにしてたんだよ。


じじいとの共同生活、最初の一カ月は最悪だった。毎朝6時にはニワトリに起こされるわ、休みの日には山へ狩りに連れて行かれるわ、部活からヘトヘトになって帰ってきたら酔ったじじいからしょうもねー女の話聞かされるわ…ちょっと待ってくれよ、オレは青春を謳歌したかったんだぜ?何でオレだけこんな原始時代の暮らししなきゃいけねえんだよ?スーパーファミコンは?クールなCD付きのコンポは?今は平成なんたよ。とまあ毎日文句の連続だった。

しかし人間ってのは順応するもんで慣れてみりゃこの生活も悪くないんだぜ。

ニワトリとも友達になれたし、何よりも自然と仲良くなれた。生きることとは何かを考えさせられたいい時間だったよ。

半年後には慣れたもんで早起きしてじいさんとばあさんに産みたてほやほやフレッシュな目玉焼きとじじいの大好きな甘ったるいベトナムコーヒーを振舞ってたくらいだ。

 

この頃のオレを支えてくれたのはガンジーの本だった。非暴力、非服従

オレはこう見えてガンディズム信奉者なんだよ。

戦争せずにインドを解放に導いた男。

オレ達アジア人にとっちゃブルースリーと並ぶ英雄だろ?

 

ー束縛があるからこそ、私は飛べるのだ。

悲しみがあるからこそ、私は高く舞い上がれるのだ。

逆境があるからこそ、私は走れるのだ。

涙があるからこそ、私は前に進めるのだ。ー ガンジー

 

逆境精神なんて言葉があるがこの男こそそいつを貫ぬき、見事に体現した人だ。

まだまだ、こんなことで挫けてたまるか。

やってやる、何かを。

男になるんだよ、本物の。

嘘偽りない自分ってやつにならねば。

ーーーーーー

 

とある土曜日、近所をブラブラしてるとよく知った連中が駐車場に溜まってた。

ライトにヤンキー化し始めてきたこの時期の田舎少年ってのは駐車場に溜まってコソコソくすねてきたタバコを吸いながらだべるなんてのが、今考えてみるとダサい話だが当たり前の時代で、ケータイもネットもないあの頃、仲間を見つけるってのはストリートが一番だった。田舎じゃ行き場のない奴らは大抵、同じ様な場所に溜まってた。

そこで新たな友達ができたり、新しい悪さや遊びを覚えたり、時々くだらねえケンカに巻き込まれることもあったが、思うにこいつが”ストリートカルチャーの始まり”ってやつだと思う。

”ステキな出会い”なんて場を作って商売が成り立つ現代の21世紀からしたら信じられねえだろ?

昔は良かったなんて言う気は更々ないが、しかし日本ってのは90年代までは今より幾分かソーシャルな国だったんだよ。

ーで、そこには同じ学校の友達が4人ほどいて、記憶が確かなら当時親友だったトシクニ、サカエ、アキラ、それからクラスでオレの斜め前に座ってた仲間では紅一点のヒトミちゃん。

 

「よー!こっちこいよ、ヒトミがスゲーことやってんぞ!」

 

小走りで近寄ってみると彼女、スケボー走らせてオーリー決めてんだよ!

小さなラジカセ置いて、Black FlagのMy warかなにかを爆音で鳴らしてさ!めちゃくちゃクールじゃねえか!学校じゃセーラー服着て真面目に勉強してる女子がだぜ?こいつはマジでぶったまげたよ。

 

クソ、完全に負けた…。

彼女は圧倒的に、クラスの誰よりもクールだった。

オレは潔く敗北を認めすぐさま言ったよ。

 

「オレにスケボーを教えてくれよ!」

 

「いいけど板持ってるの?(笑)」

 

ああ、そうだった…うちは貧乏だった。

しかしオレは何が何でもこのクールな遊びに参加したかった!このままじゃ平凡なヤンキー中学生になるのは目に見えてた。

この新時代、平成においてヤンキーなんてやってられねえだろ?

こうなりゃ盗んでくるしかねえ!

いや、待てよ、この田舎町にこんなクールなスケボー置いてる店なんかあったか??

 

「なー、ヒトミちゃん、板どこで買ったの?」

 

彼女は一言こう呟いた。

 


「…東京。」

わかってたまるか

We are all in the gutter,but some of us are looking at the stars

ーオレ達はドブの中にいる、だがそこから星を眺めてる奴らだっているんだ。「オスカー・ワイルド」ー

 

 

ーー中学生、13歳、青春の幕上げ。

ただし、かくこの語り部たるオレにとっての”青春”とは読書諸君らの周知の通り他とは一味違うであろうことは容易に察しがつくだろ?


オレはどういうわけか新しい場所へ行くたびに必ずといっていいほどトラブルから始まるんだよな。

小学校、中学、高校、新しい職場、新しい街…ありとあらゆるところでだ。

別にわざとやってるわけじゃないんだが、しかし、そうやって存在感を示さなきゃいつかまた”透明”になっちまう

そんな恐怖が心の隅っこにあるのかもしれない。

中学生になったオレは何をしてるかって?一番最初の記憶を辿ってみると…

 


ありゃあ5月だったか。

新米英語教師の”戸田”ってケチな野郎と言い争ってた。

奴は先生になったばかりだったと思うが、機嫌が悪いとイチイチ生徒につっかかってくる陰湿な野郎だった。

今となっちゃ信じられないだろうが、当時のオレは英語がからっきしダメでしかも授業が退屈だったもんだから、身が入らなかったというよりもはや苦痛に近かった。

 

それでも耐えて”それらしく”振舞っていたんだよ。問題は起こさず、中学の生活を楽しみたかったからな。

ところだ、この戸田って野郎は出来の悪い奴をわざと当てて公開処刑するって悪趣味を持ってたんだな。

答えられなけりゃ小馬鹿にしたように笑うんだよ。ひでえ話だろ?

あの野郎ニヤケ面で

「まーた答えられねえのかよ。お前やる気ないならもう授業受けなくていいぞ。」こんなことを言い出した。

流石にこれ以上は我慢してられねえ、こんな横暴にはオレの性格上、流石に”堪忍袋の緒”ってやつを緩まざるを得ない。

お望み通り奴の授業だけは受けまいと3回連続で保健室のおばさんに言ってサボらせてもらった。

保健室のおばさんは中々理解のあるナイスな人であの学校の大人の中じゃ一番仲が良くてさ、よく話してたもんだから英語の授業のときだけ話を聞いてもらってた。

あのおばさんも退屈してたのか、いい話し相手ができて楽しかったのか”密告”されることなくサボってた。

いいディスカッションだったよ。

確かその時にオレのフェイバリットとなる小説「アルジャーノンに花束を」を教えてもらったんだよな。

「知識は上手く使いなさい。世の中には孤立する人は必ずいるけどいじけちゃいけないよ。」なんて慰められたっけ。

 

結局、サボりが3週続いた後に呼び出しを食らっちまってたちまち先生に囲まれた。

6年生でおとなしくなってたはずが逆戻りさ。気に食わなきゃ跳ね返る、この性格は直そうったってそう簡単にはいかねえ。

なんで英語の授業だけ受けないんだ?ってくだらねえ質問に答えてやったよ。

「先生が受けなくてていいって言ったんだぜ?だから二度と受けないよ。

オレは一度でも嫌なんて言ったことはないし、先生が勝手にオレを拒絶したんだから行かねえよ。」

そうするとあの野郎

「やる気を出させるために言っただけで本位じゃない。」だの「憎くて言ったんじゃない。」だのと言い訳のオンパレード。

全く話にならねえ、自分の言葉になんの責任も持てない退屈な野郎だった。

 

ーそもそもてめえの発言に責任を持てなんて言ってる奴らがちょくちょくいるが、大体の場合、そんなこと言ってねえだのあの時はこうだったなどそれらしい言い訳を並べるのが人間ってもんさ。

第一この国の行く末を担う政治屋ですらてめえの言葉に責任なんか持っちゃいないだろ?この国でキッチリ責任を持って発言してる奴なんて何人いるんだ?残念ながら発言に責任を持てる奴なんてのはそうはいないのさ。ー

 

戸田って野郎もそうだ。

弱い者に強く、強い者には弱い。

それらしく振る舞ってはいるが上の連中に事実を突きつけられりゃメッキがあっさりと剝げ落ちる。

そりゃそうだ、中身なんて空っぽの薄っぺらい野郎だしな。

一切態度を改めないオレに業を煮やした連中は仕方ないと即座にあの”悪魔”に連絡しやがった。

オレの通ってた中学校はどういうわけか何か起きると決まって親に連絡する面倒なところだった。

先生同士も仲悪そうだったし、”自分の与えられた仕事以上のことはしたくない”そんな感じがアリアリと出てた。

いかにもビジネスライクな”ブリキのロボット”達だった。

なんてこった…中学校はもっと楽しいところかと思いきやあてが外れちまった。

 

母は呆れてた。

結局何も変わっちゃいない。

何が気に食わねえんだ?何を考えてるのかわからない。そんな様子だったな。

そりゃそうだろ。

100パーセント簡単に理解されるようなナイスな野郎だったことなんて一度もないんだぜ?この頃にはわかって欲しいなんて気持ちは更々なく、寧ろオレの感情を一言で表すなら

 


「わかってたまるか。」

 

まさに思春期真っ只中だった。

 


ーーーーー

 

程なくしてオレ達は”川越バス遠足“なるイベントに参加させられるハメになった。集団行動が極端に苦手はオレにとっては最悪な行事だが、何とか楽しむ術を見いだそうと思って仲間とあれこれ相談してはいたが、川越のことなんてちっともわからなかったし、情報もなかった。いや、担任から説明かあったのかもしれないが、全くと言っていいほど記憶に残ってなかった。


バスで2時間程度。

川越に着いて、菓子屋横丁だとか古ぼけた鐘なんかを眺めながら一同で練り歩く。

オレの大嫌いな集団行動ってやつだ。

軍隊じゃあるまいし、全員で同じ格好してゾロゾロと脇目も振らず行進…くだらねえ。

ーこの国のしょうもねえ軍国主義教育、精神論は世紀末の足音が聞こえ始めた90年代に入ってからも色濃く残ってて、体育祭でも軍隊の真似事をさせられることがあった。

オレはこの手の前時代的な考え方の押し付けが死ぬほど嫌いだった。

遠足も体育祭も何もかもまじめに取り組めなかったのはこいつのせいだ。

“未来を背負って立つ子供達の育成”なんて言っておきながらやってることは50年代から変わっちゃいない。ー

ようやく自由行動の時間になるとオレ達は早速飲みものでも買おうかと少ないお小遣い叩いて自販で買って飲んでると、ソッコーで先生がやってきて


「お前ら何やってんだ!」

怒鳴り散らしてきた。

 

誰もがは?って感じだよな。

何も悪いことはしてないし、犯罪行為でもない。

しかし先生連中は怒り心頭で

「お前らバスに戻れ!」

とまあ大激怒してやがるんだよ。

 

「自由行動時間の買い食い行為は禁止と言っただろ?聞いてなかったのか!全員反省文だ!バスの中でおとなしくしてろ!」


こんな酷い話があるか?

たかだかジュースを飲んだだけで重罪扱いだぜ?”規則違反”の名の元に始まる横暴さ。

仲間達はさっさと終わらせてテキトーに時間つぶそうぜって感じだったが、オレは腹わた煮え切らねえ。

徹底的にこの横暴に対して糾弾する文書を書き殴ってやったよ。

何がいけなかったのか、何を反省すべきか、そもそもこの規則とやらは何のために存在するのか?こっちにだって言いてえことを言っていい権利はあるだろ。

 

翌日、オレだけが呼び出しをくらい、大目玉を食らった。

何一つ反省してない、なんだこのふざけた文章はと槍玉に上げられたよ。

おいおい、オレは至って真面目に書いたんだぜ?ふざけた文章はいくらなんでもないだろ?

結果は見るも哀れ、語るも哀れ、オレに命じられたものは部活動、陸上大会への強制参加だった。

最悪だ…遊ぶ時間がなくなっちまう。

陸上部のないうちの学校は部活動のあとに陸上の鬼特訓が待ってんだぜ?

帰る頃には20時とかになるのさ。

 

一番不人気かつ、オレには全く似合わない、そもそも一ミリの興味も楽しみすら見出せないバレーボール部に入った。完全なる無気力状態で、オレはあまりのやる気の無さに二日目には”先輩”とやらに囲まれた。

 


「おい、てめーやる気あんのか!」

 

「いやあ、あんまり無いんですよね、無理矢理やらされてるだけだし。」

 

こんなふざけた態度でいたら、瞬く間に殴る蹴る、完膚なきまで。クソ痛え…

これが世にいう鉄拳制裁ってやつさ。

 

どうやらこの国には歳を食ってりゃ下に何してもいいなんてふざけたシステムが大昔からあったらしい。しかも誰一人疑いもせず甘んじて受け入れなきゃいけない。

このシステムを否定しては生きては行けない世の中だってことをこの日生まれて初めて知らされた。

ああ、なんと美しい国、日本!

この国は理不尽な暴力を誰に咎められるでもなく通せるらしいぜ!世界の皆さんこれが世界有数の平和な国ニッポンですぜ!ヤッホー!

 

来る日も来る日もボールと格闘し、終われば水も飲む暇なく走らされる。

オレの学校生活はまるっきり軍隊に様変わり。

どうせろくなことしねえなら遊ぶ隙を与えなきゃいい、そんなところだろう。

フラストレーションも限界に達し始めたある日、当時親友だったトシクニから呼び出された。

ーこの野郎は小5の時に喫煙ブームを持ち込んだ張本人であり、プロ野球選手を目指して挫折した父親に野球を無理矢理仕込まれたが、鬼のように扱かれ挙句、肩を壊し行き場を失った被害者だ。

生まれた時から夢を押し付けられ、たった11歳でその道を絶たれちまった。つまり奴は同級生の中で誰よりも先に人生の挫折と絶望を味わった。可哀想な奴だった。何より本人が何をしなきゃいけないのか分からず親にも蔑まれた結果、見当違いの道へ踏み外してしまった(奴の哀れな顛末は後に話すことしよう)ー

 

13歳なのに背は170cm近くあって、頭は悪いが腕っぷしはめっぽう強く、当時は最もヤバイ奴だとかイカれた野郎だと思われてた。実際のところ周りの奴の評価は勘違いも甚だしく、こいつの頭は常にクリアで、全てわかった上で悪さしてた。ただオレとは違う意味で冷めてただけだったんだよな。

要するに奴にとっちゃ野球人生の道が断たれた時点でもはや人生暇つぶしでしかなかった。

“どうなろうが知つたこっちゃねえ”

そんな態度だった。

 

奴は隣のクラスにいたんだが、話を聞けば、先生にコケにされてムカついた挙句、授業中先生に向かって椅子をぶん投げた罪で地獄の柔道部に強制入部、しかも相撲の大会への強制参加が決まったらしい。

オレよりも酷え状況じゃねえか。

話をしてるうちに段々怒りが込み上げてきた。

 

いや、そもそもオレ達は常にムカついてた。ありとあらゆるものにだ。

実際、この苛立ちが何なのかもわかってなかったし、どこから来てるのかもわからなかった。

思春期ならではの感情だったのだろうか?それともこのクソみたいな街の環境がそうさせたのか?

次第にオレ達は”衝動的に”何かをしでかすようになっていった。

クラスにエロ本を持ち込んで見つかって親を呼び出されたり、万引きで捕まったり、はたまた戸田の野郎の車のミラーを破壊したり、学校サボってみたり、思い出せないくらいある悪さの連続、ろくでもない事をしでかす日々が続いた。

親に殴られ、先生に殴られ、先輩に殴られ、それでも衝動は抑えきれなかった。

“知ったこったゃねえ”

 

開き直ったオレ達コンビはある意味無敵だった。

 

母は次第に疲弊していき、顔を合わせても口を聞かなくなっていった。

事あるごとに学校に呼び出され、何百回とオレを殴り怒鳴りつけても繰り返される悪ふざけに、いよいよあの悪魔も耐えられなくなってきたらしい。

オレは小学生時代からすっかり様変わりしていた。

あの時点においては悪魔は母ではなくオレの方だった。

 


ーーーーーー

 


ある日、部活動という名の”刑罰”を終え、ヘトヘトになりながらあのクソみたいな豚小屋のドアを開けると、そこに意外な人物の顔が飛び込んできた。

 

何故この人が…どうしているんだ?

いや、誰が何の用で呼んだんだ…?

 

ここでまたもオレの生活がさらに思いがけない方向へ進んでいくことになる。

そう、青春の幕開けは実はここから始まるのだ。

 

それは1993年、夏の夜。

家の周りはカエルの大合唱がやかましく鳴り響いていた…

第1部を書き終えて

40歳という人生の折り返し地点を迎え、初めて自分の過去に自伝という形で真剣に向きあってみたんだが、これがなかなかどうして大変な作業だった。

 

記憶力はいい方だと自負してきたはずなんだけど、30年前の記憶となると随分と忘れてる事が多くて自分でもビックリしたよ。

なんせ小学校の同級生の顔すらあまり覚えてなくてさ、断片的な記憶を頼りに、過去の自分と今の自分が交錯するような形で書かざるを得なかった。

つまり今のオレがどんな人物か読み手はわかってる体で書かないと表現できなかった。こういう風に書き進めないと事実を淡々と書き連ねるだけの味気ないものになりそうだし、当然ながら子供の頃の気持ちに100%立ち帰ることってもうできないだろ?だから客観的に過去を見つめるもう一人の自分、つまり40歳の現在の自分が必要だったわけ。

まあ少々読みづらさはあったかもしれないけどそこはご勘弁を。

 

それともう一つ

幼少期の壮絶な母からの暴力について。こいつも描くのが難しかった。

これはあまり人には話してこなかったことで、オレ自身思い出したくない過去だったせいか、書くのが辛くて細かく描写できなかったなあ。

マイルドに書いてしまったけど

実際はもっと壮絶で深刻なものだったよ。

補足しておくと、オレの反抗期が始まったのは小学三年生の時で、母にぶん殴らたあと信じられないくらい怒りが込み上げて、熱々のお湯が入ったヤカンをぶん投げたことがあったんだよ。

ブチ切れた母はオレを気絶するまで叩きのめした。

その頃のことを書こうと思い出してたら書いてる途中で過呼吸になっちゃってさ(笑)

そんな訳でまるまる一話削ってるんだよね。

しかしまあトラウマってのはタチが悪いよな全く。

 

かなり暗い話ばかり書いたけど、勿論楽しい思い出もたくさんあったんだよ、ただ若い奴らに向けて書いてるのに過去を美化して描くのってクソじゃん。

だからあえて悲惨な出来事やオレ自信がやらかした出来事を抜粋してみた。

昔は良かった”なんてそもそも感じたことないし、バブルの頃の日本って世間が言うほどそんなに素晴らしかったとも思えないしな。

ウチにはバブルの恩恵ってやつは無かったし、寧ろその真逆であの時代において有り得ない程の貧乏はまず問題のある家って感じだった。

30年経った今になって格差なんて言われるようになったが、昔からあったんだよな。

 

それとあんまりオレの生い立ちについて可哀想とかも思われたくないかな。

何せオレの親友たち、ドレッド頭のあの野郎、北アフリカからやってきたイカれたあいつらなんかも、オレと同じく壮絶な子供時代を過ごしてきててさ、笑い話かのように”銃で撃たれた”話なんて聞かされた日にはこれが悲劇だなんて口が裂けても言えるわけねーだろ?(笑)

つまりさ、何ごともなく”一般的な家庭”に産まれて育つってのはマジでラッキーなだけで、オレみたいな連中はどこにだっているんだよって話さ。

 

第1部はこんな世間様が言うところの”普通じゃない”奴だって必死に生きてんだぜ、あんたと同じようにってことが言いたかった。

普通じゃない家庭で育ち、普通が何なのかわからないまま、それでももがきながら立ち向かう様が伝わってくれたら嬉しいかな。

これは決して特別なことなんかじゃない、苦しみながらもがいて必死に生きてる奴はあんたのすぐ隣にいるかもしれないよってね。

 

そして人生最大の恩師、小川先生の話。

この話、実は以前一度書いたことあるんだよね。

若い奴らに聞かせたことも何百とあるんだけど、これを一部の最後に書こうというのは最初から考えてた。

先生はもっと生きたかっただろうし、無念を晴らしたいという気持ちもあり、先生の教え子だっていう誇りもあるし、先生の教えを伝えることが先生への弔いでもあると思っているから。

今、オレが若者達と一緒に色んなものに取り組んでいられるのは先生の教えのお陰さ。

同じ目線で話すこと、同じように悩んでみること、とにかく話をまず聞くこと、その重要性は先生と過ごした1年間で学んだことが基礎になっている。

もちろん今も悩んではいるよ。

世代の違う若者とどうやって付き合っていくか、これは大人の役割だからね。

 

それにしても今考えたから先生はとんでもなくできた人だよなあ…先生って言っても当時28歳の若者だぜ?

みんな28歳のとき何やってたよ?子供達のために、未来のためになんて考えて行動してる奴なんているのかな?

今までいろんな奴らに出会ったけど、これまでの人生であんなにも未来に貢献しようとした28歳は残念ながら出会ったことないかもなあ…

 


先生と同じ40歳になった今、オレは先生みたいな素敵な大人にはなれなかったけど、若者達の未来を考えられる大人にはなれたつもりではいるかな。

オレみたいなのは余計なお世話、面倒なおっさんと感じる人もいたかもしれないけど、ギリギリ老害扱いされずには済んでるとは思う。多分だけど。

 

それから強烈すぎるうちのクソジジイ。ジジイはある意味この自伝の中でもう一人の主役というか、代弁者の一人であり、これもまあ極一部の友人にはよく知られた話ではあるんたが、

オレが腐ず生きてこれたのはこのじいさんの存在があってこそだ。

あんな強烈なのが生まれた時から近くにいるってのはオレにとっちゃある意味ラッキーだった。

生まれたときから偏見って概念がオレには一切なかったのはじじいの影響で、これが後にロンドンでの生活を素晴らしいものにしてくれた。

半径数キロの世界を”半径9600キロ”にしてくれたのは間違いなくじじいがいたから。

なもんで自伝のタイトルnaughty kid(悪たれ小僧)はじいさんへ捧ぐという意味が込めらてる。

 


まあ、じいさんからは

“昨日食ったお前の飯なんて誰も気にしやしねえ。そんなことよか明日をどう生き抜くか考えろ”なんて言われちゃいそうだけどさ。

あのじじい、日記とか過去の出来事を一々残すの大っ嫌いだったからあえてネタに使わせてもらうよ。孫なんだからそのくらいいいだろ?

 

ーーーーー

さてさて、第2部からは中高生編になりますが、どこをどう書いていこうか頭を悩ませてる。

各章10話以内に収めるというのがオレの中でのルールなんで6年間で起きた出来事をどう抜粋していくかなんだが、大ぴっらには書けないようなヤバい話もあるし、じっくり取り組んでいこうかね。

 

そんなわけでよかったらもうしばしオレの与太話に付き合ってくれたら幸いです。

 

ではまた第2部で。

 

The end of the world

タバコがバレてこっ酷くぶん殴られ、普段あまり手を出さない父親にまでぶん殴られた挙句、秘密基地へ集まることを禁じられ、最低最悪の小学5年生の生活は幕を閉じた。

 

6年生になったオレは5年生でデカいことをやっちまったもんだから、多少おとなしくなってた。退屈と気だるさが堕落へ誘い、勉強も疎かになっていき毎日上の空。

友達とグランドに集まってただ喋るだけなんて日もあった。そいつはまるで暇つぶしに小石を川に投げてるようなもんで、ちょっとした抜け殻状態だったかもしれない。

 

一つ大きく変わったことといえば、女子に嫌われちまったってことか。

女の子ってのは先に大人になるからな。オレ達みたいなのが酷くガキっぽく、喧しく映ったんだろうぜ。

 


“男子ってガキっぽくて馬鹿みたい”みたいなさ。

 

年頃の女の子はみんな大人に憧れを抱くだろう?オレ達はその真逆さ、なんせガキであること最大限利用して遊んでたからな。

白馬に乗った王子様なんて田舎の小学校には当然いるわけないし、オレだってなる気もない、とにかく女子の神経を逆なでするのがオレ達だった。

更に新しく担任になった小川先生ってのが28歳と若くて高身長の爽やかイケメンだったもんだから始末が悪い。

女子はたちまち先生側になっちまったってわけ。

 

いつもニコニコしてて、しかも女子に人気があるもんだから最初は何だこいつって感じでムカついてたよ。

加えて、12歳の頃にはもはや”先生”って存在に何の信頼も尊敬もなかったし、奴らは先生というラベルを貼り付け、”それらしい顔”の仮面被り、お決まりのフレーズを並べれるだけ。

まるで大量生産されたブリキのロボット人形にしか見えなかった。

 


”普通じゃない”なんてレッテルを貼られていたであろうオレはひねくれていたし、もはや学校なんて暇つぶしとしか思ってなかった。

要するに学校ってもんに心底失望してた。

 

 

 

ある日、6年生の教室は最上階にあったもんだからオレ達はベランダから唾を垂らして誰かに当てたら1ポイントなんて究極にくだらねえ遊びをしてた。

教頭か校長が最高得点だ!なんてアホなことに躍起になって、繰り返してるとまさか本当に当たっちまったんだよ教頭の肩にさ!

教頭は頭カンカン、顔を真っ赤にしてブチ切れて「誰だー!」って怒り狂ってる姿を見ながら笑ってた。

クラスは女子vsオレ達って状況だったおかけで”小川先生に言うから!”とまあこんな調子で早速チクられていつものように呼び出し。

オレ達は完全に風紀を乱す学校内の悪だった。

 

今度の担任はどんな感じだろう?

ゲンコツか?怒鳴り散らすだけの野郎か?どっちでもいい、オレには痛くもかゆくない。奴らは必ず”手加減”することを知ってるし、暴力には慣れてたから。

オレにとって恐ろしいのはあの悪魔を呼ばれることで、心配はいつもそっちの方だ。

オレ達は特に悪びれる様子もなく、あの重苦しい職員室を開けると小川先生は、オレ達は別室へ連れて行かれた。

 

“こりゃあやべえ、悪魔を呼ばれちまう!どう切り抜けるか?”なんて冷や汗かいてると先生はオレ達と”同じ目線”にまで落とし口を開いた。

 

「みんなの話は前々から聞いてるよ。先生は別に怒ってない。

ちょっとみんなに聞きたい事があってさ。」

 

は?怒ってないだって?おいおい、どういう事だよ?オレ達はあんたらを怒らせるためにやってんだぜ?

思わぬ肩透かしだった。

 

「みんながやってることって本当に楽しい?あれつまんなくない?少なくとも先生とクラスのみんなはつまんないって思ってるよ。先生も子供の頃イタズラが大好きでさ、よく怒られたけどもっと面白いこと考えてたと思うよ。」

 

先生は怒るどころかむしろ笑顔なんだよ。しかもオレ達がつまんねーだって?なんなんだこの人は…?

 

「退屈してるならみんなが笑顔になるようなことしてみたらどうだ?この5人は人気者なんだしきっとできるよ。

“良い行い”っていうのはみんなが笑顔になることなんだ。楽しいときは笑顔になるし、幸せな場所には必ず笑顔があるものさ。笑う門には福来るって言うだろ?それは君たちにだってわかているはずじゃないか。」

 

オレ達は先生の言葉の意味について考えたよ。

自分達の行動や、その責任の所在や影響ってやつについてさ。

周りのことなんて一切気にしちゃいなかったし、勝手にこれがクールだと思い込んでたからな。

オレ達もそろそろもう一段階成長しなきゃいけない時期に来てたんだろう。

何よりませた生意気なクソガキだったオレ達はクールじゃなきゃ意味がねえってのが信条だった。

まあ、今考えてみると死ぬほどダサいことばかりやってたわけだが…

 

何だか自分のやってることが段々つまんなく感じ始めた頃、オレ達は昼休みに決まって”タイマンドッヂ”なる遊びをやっていた。

当時人気だった漫画”ドッヂ弾平”の影響だったと思うが、一対一で至近距離からボールをぶつけ合うんだよ。

しかも手加減無しに顔面狙ったりするもんだから鼻血流しながらやってたっけ。頭悪すぎるよな。

 

すると小川先生がやって来て

“俺も混ぜてくれよ、1対3でいいからやろうよ!”なんて言い出した。

その辺にいたクラスの連中もギャラリーとして集まってきた。

まあ、この先生は運動神経もズバ抜けてて、球は一切当たらねえし恐ろしく強かった。

誰か勝てる奴はいねえのか?ってクラスは先生の話で持ちきりになった。

 


また別の日にはトランプを持ってきてポーカーを教えてくれたことがあった。今の時代なら問題かもな。

これもクラスみんな集めてさ。

 

“ポーカーは技術もあるが精神力が必要なゲームだ。例え持ち札がダメでも相手を負かすことだってできるんだよ。”

 

オレ達は先生が教えることに何でも夢中になった。教え方の上手さもあったし、何より興味を引くように話をしてくれるから。

オレみてえな頭の悪い劣等生でも理解できるように説明するんだぜ?

12歳の頭でも理解できるようにものを教えるには12歳の心も理解しなきゃできない芸当さ。

 

ー誰だって大人になりゃ子供の頃のことなんて忘れるもんだ。

ガキの頃はつまらない大人になりたくないなんて言うわりに殆どの奴らつまらない大人になっちまう。

散々つまらん大人を見てきたはずなのに”今の若い奴らは”だとか”昔は良かった”なんてクソみたいなつまんない大人のキャッチフレーズを吐くようになるのさ。40になった今なんてオレより若い奴らが言い始めてんだからゾッとするよ。

考えてみろよ、昔が良かったなら今はもっと良いはずだろ?今が良くねえなら昔も良くねえし、何だったらどっかで間違いがあったはずなんだ。

古き良き時代を懐かしむよか、何がいけなかったのか現実に向き合うべきだろ?過去から学ぶってのはそういうことじゃないのか?ー

 

ところが先生はいつでもどこでも簡単に子供に戻れちまうんだよ。

それでいて大人としての度量、安心感、責任感、知性を持ち合わせる人だった。

明らかに先生は他の”大人”とは違っていた。

”子供なんだから”なんて大人の目線から押し付けることは一切なかったし、

常に同じ目線で考え、話をする人だ。

正に”先を生きてきた”文字通り先生だった。

 

ある日体育の授業で一人だけ逆上がりのできない奴がいた。

オレは体育はとにかく得意でさ、足は誰よりも速かったし、鉄棒や跳び箱の類も難なくこなしてたもんだから、なんでこんな簡単なことができねえんだ?なんて増長して少し小馬鹿にしてたんだよ。

 

すると先生は  ー

 

“クラスで一上手いのはお前なんだから先生の代わりにどこがいけなくてどうしたらできるようになるか教えてくれないか?”と聞いてきた。

 

オレはその大役を引き受けた。

教えることの難しさも学んだが、何より大事なのはできないことをバカにするくらいならできるように協力するのが友達だろうってことさ。口で説明するんじゃなく体験から学ぶわけだ。

 

その時、ふとじいさんの言葉を思い出した。

 

ー100人できることができて威張ってる野郎なんて退屈な奴だ。ー

 

危ねえ、まさにオレがその退屈な野郎になるところだった。

教育者という立場からの視点という違いはあっても、先生の言いたいこともあのじじいと同じだったに違いなかった。

そうしていくうちにバラバラだったクラスは次第にまとまっていった。

何せクラスの人気者は先生であり、誰よりも信頼できる人も先生だったから。

先生のやり方は常にディスカッションだった。お互いがお互いを理解し合い尊重することを重んじていた。

人それぞれ違いがあって当然さ、成長速度に個人差がある多感な第二次成長期なら余計にな。

だからお互いの理解を深め合うことが何よりも大事なんだよ。

 

大雪が降った次の日は一限目から

“勉強はやめだ!こんな日はみんなで雪合戦しよう!”なんて先生は誰よりもハイになってグラウンドに飛び出してさ。ありゃ笑えたな。

先生は雪国の生まれじゃねえのに雪が大好きだったから。

 

先生はグループを二つに分けたんだけど、男女混合でしかもオレとはてんでウマの合わない女子グループの子たちが同じチームだった。

今思えばあれは先生の狙いだったんだろうな、同じ目標を持たさせりゃ結束するだろうってね。

体育祭じゃ競技は全部男女別々だったし、この雪合戦で初めて女子と協力することになったわけだ。

そして実際この時、初めてこのクラスの女子と打ち解けた記憶があってさ、見事、先生の思惑通りってわけだ。

 

この1年間を通してオレの成績はうなぎ昇りで、算数と図工を除いて全て5を取ったこともあった。

元々、勉強は好きだったし先生の授業はどれも楽しかった。

何のプレッシャーもなくのびのびと学べたんだよ。あれこそ真のゆとり教育ってやつさ。

悪さもしなくなったせいか、母の暴力もこの時期は殆どなく、これ程までに暖かく充実した毎日はあっただろうか。

思い返すとこの40年の人生の中で最も幸せで、平和な一年であり、毎日満ち足りた日々だった。

その全ては毎日笑顔で教壇に立つ我らが小川先生のお陰だったよ。

 

昼休みが毎日楽しみでさ、みんなで先生を囲んで話したことを思い出すと今でも涙が溢れてくる。

 


1993年3月ー

 


いよいよオレたちは卒業式を迎えた。

学ランを着たオレ達を眺めながら先生は涙いっぱい目に溜めながら笑っていた。

小川先生の最期の授業を前にしオレ達も涙が溢れた。

 

「みんなは4月から中学生になります。中学生ならもう自分で考え、自分で判断し行動できる歳です。

いいかい、これだけは覚えておいて欲しい。

大人だからってみんな正しいわけじゃない、大人だって間違ったこともするし、嘘つく人もいっぱいいる。

だから、自分が絶対に正しいって心の底から思えるなら大人の言うことなんて聞かなくていい。

自分の心に従って行動しなさい。

もし、この先みんなの人生の中で、嫌な大人、汚い大人に出会ったら心の中でこう強く念じなさい。

“こんな大人になんか絶対なるものか!!”

そうすればきっと君達は”素敵な大人”になれる!

君達が素敵な大人になってくれることを先生は信じてるよ。

卒業おめでとう!」

 


先生の最後の教えは、オレの人生に最も影響を与えた最高の言葉の一つだ。

この教えは今でも守り通してきたし、一度も破ることなくこれまで生きてきた。今になって先生の言葉の意味をようやく理解できたような気がするね。今でも先生は正しかったとオレは信じている。

 

その後も小川先生は小学4年生から6年生の担任をずっと続けていた。

出世なんてくだらねえもんに目もくれずにね。

常に人気の先生だったらしい。

そりゃそうさ、小川先生は世界一の先生だぜ。誰があの人に文句言えるってんだよ。

ガキ共にとってあの人こそ最高の大人さ。

 


ーーーーー

 

残念ながら、小学校卒業から12年後のある日、母からの突然の電話によって訃報を聞かされることになった…

 

泣きながら話す母から小川先生が亡くなったと伝えられた。

 


享年40歳。

 

体調不良を訴え、病院の精密検査で肺癌が発覚した時にはもう手の施しようのないほど進行しており、まだ若かった先生は病気の進行も早く、入院から僅か2カ月であっという間にこの世を去ってしまったらしい。

 


ヘビースモーカーだった先生はベランダでよくタバコを吸ってたっけ…

 


ある日、クラスの女子が

「先生、タバコばっか吸ってると病気になっちゃうよー。」なんて言うと

 

先生は

「病気になろうがなるまいが、先生はみんなより先に死ぬからなあ。

これは順番だから。

みんなは順番間違えちゃダメだぞ。これは絶対約束してくれよ。」

なんて言ってたっけ。

 

先生、たしかにあなたは順番は守ったのかもしれないよ。先生はオレ達の前じゃ絶対嘘つかない人だもんな。

でもさ、先生、いくらなんでも早すぎるじゃねえか。

約束を果たすのはもっと後でも良かっただろ?

先生、見てくれよ今のこの酷い世の中を。

あの頃は少なかったオレみたいなガキが溢れかえって苦しんでるんだよ。

今こそあなたの様な人が必要じゃねえか…あなたのような”素敵な大人”が…

 

思い返してみると、先生、あなたもきっと沢山汚い大人を見てきたんだね。

だから子供達の為に先生になったんだろ?未来を託すために、希望の火を絶やさない為に。

先生がこの世界にいないなんて残念で悔しくてたまらないよ。

 


ーーーー

 


こうして最高の卒業式を終えたオレは中学、そして高校へと進んでいくことになるのだが、時代はバブル崩壊から氷河期へと移り変わり、人生は予想だにしない方向へと向かっていくことになる。

90年代… 思春期、東京、ファッション、パンクロック、カルチャー、ドラッグ、それはオレにとって激動の時代への突入を意味するのだった。

 

 

 

ー第一部完ー

Children of revolution

小学5年生のとき、更年期のババアみてえなヒステリックでやかましい出っ歯のおばさんが担任になった。

ドラゴンボール北斗の拳も暴力的だから見てはいけません」などと平然とぬかすような典型的な昔ながらの教育者タイプで、クラスを扱い易いように明確なルールを決めて個性を一切尊重しない奴だった。

何て頭の悪いやつだと思ったね。

カメハメ撃ってる奴見たことあんのか?空飛んでる人間は?あべしっ!なんて言って頭吹っ飛んだ人間なんてどうやったら拝めるってんだよ。

 

現実と漫画の区別がついてない漫画脳ってのは本来ああいう奴らのことを言うんじゃねえか?

 

オレの住んでる地域は特に漫画、アニメ、ゲーム、映画に関してうるさい大人が凄まじく多かった。

なんせ隣の村に住んでる女の子がオタクのシリアルキラー宮崎勤”に殺され喰われたって恐ろしく痛ましい事件があったんだよ。

 

小学二、三年生の頃だったか、あの時はマジでスティーブンキングのITみたいな状況だった。

彼女は3人目の被害者だったと思うが、犯人の目星が一切つかず、犯人がどこに潜んでるかわからない状況でさ、ターゲットは小学生だってんだから町は大混乱。さながらホラー映画の世界にぶち込まれた気分だった。

なんせ誰かが見かけない車が止まってたって言っただけで警察が出動するような始末だぜ?

オレ達ガキ共は毎日その話で持ちきりさ。

襲われたらハサミで刺しちゃえなんて言ってさ、みんなハサミを忍ばせて帰ってたもんな。

なもんで残虐なアニメや映画を見たら将来殺人鬼になっちゃう!なんて妄信してヒステリー起こしてるババアが山ほどいたのさ。

—————

オレを含む5人の”悪たれ”どもは毎日のように馬鹿なことしてた。

引いてた奴もいたが、クラスの連中は喜んでたと思う。

オレ達は全員と仲が良かったし、スクールカーストみたいなクソシステムが大嫌いだったしな。

誰が上とか下とかそんなもんにまるで興味なかったし、それぞれの個性ってやつを尊重してた。

逆に弱い者イジメなんてやってる奴は徹底的に追い込んでたくらいだしな。

なんせオレ含め仲間は貧乏な家のガキだ、社会的にみたら圧倒的にオレ達は弱者側だろ?

“下を作って悦に入る”なんてしょうもねえ行為だし、オレ達はただ毎日楽しく過ごしたいだけだった。

 

一方であの”出っ歯”はよくわからないルールを押し付けてて毎日みんなムカついてたよ。他のクラスよりやたら宿題多かったし、不公平だってね。

 

「まあ見てろ、いつかあの出っ歯黙らせてやるぜ。」みんなにそう言って回ってオレ達は虎視眈々と反逆のチャンスを伺っていた。

 

ある日クラス内でお菓子を持ち込んで昼休みにパーティーをするのがブームになった。

男の子も女の子も、絶対してはいけません!なんて説明もなしに押さえつけられりゃかえって悪さしたくなるもんだろ?

 

ー何故ガキどもの悪さはなくならないのか?

そりゃ快感だからに決まってんだよ。

なら他のことに興味を持たせるようにきっかけを与えるのが大人の役目だと思うぜ。

実際、オレは音楽の道に進まなきゃドラッグディーラーかコソ泥で人生終えてただろう。ー

 


おそらくは他のクラスの連中がチクったのか、オレ達の”パーティー”は1週間でバレて、これは大問題とばかりに放課後のホームルームで物々しい”裁判”が開廷された。

わめき散らす出っ歯の面ったらなかっぜ。まるっきり魔女だなありゃ。

 


はっきり言ってこんなことの何が問題なのか?しかしあの時代、田舎のクソ学校じゃ大問題なのさ。

退屈かつ無意味なお説教、犯人探し…くだらねえ。

暇で仕方ねえ連中は人の粗探しに講じるしかやることがない。

クソみたいなゴシップを追いかけてるような連中と一緒だよ。

どこにだってこの手の連中はいるもんさ。学校に会社、部活やサークル、仲良しグループしかり、大小問わず組織ができると必ずこういうバカが現れる。

 

ムカついたオレはドラゴンボールが見れなくなるのが嫌で犯人だと名乗り出てやった。

無駄な時間を過ごすことに苦痛を感じないなんてどうかしてるぜ。

人生は一度きりって言葉あのババアは聞いたことないのかね?

 

出っ歯からゲンコツをもらい(あの頃は体罰は日常的に行われていて誰も問題視してなかった)クソみたいな念仏を懇々と聞かされた後、親を呼び出され一緒に怒られた。まあ、母は話半分聞いてそれらしい態度で申し訳ありませんって平謝り。


帰り道すがら

「めんどくせえババア。くだらねえことでいちいち呼び出すんじゃねえよ。」とポツリ

 

ー母の好きな点があるとすればこの辺だ。偉そうな大人はクソくらえ、大したことしてねえくせに”わかってる”って奴には大体ムカついてた。

そもそもこの”悪魔”も学校嫌いだったんだろうことは容易に察しがつく。夢見る16歳は常に反抗期ってわけだ。ー

 

しかしこれはある意味チャンスだった。

お菓子事件以降クラスの仲間達の担任対するフラストレーションはかなり高まっていたからだ。

 


オレは仲間達と相談し、あることを思いついた。

当時大好きだった映画「僕らの7日間戦争」あれをやらかそうじゃねえかって話だ。

 

映画は中学生の話だが、小学生で実際にやれたら伝説にになるだろうっていう単純明快かつガキっぽい発想だが。

 


果たしてどんだけの賛同者を集められるか?他人を巻き込んでやるとなると最大の焦点は責任問題になる。

リスクは背負いたくない、怒られたくない。誰もがそう思うことはあの退屈な”裁判”でわかっていた。

導き出した答えはシンプル。

 


「全責任はオレが取る」

 


日常的にオレによるイジメがあり、誰も逆らえなかったという設定にしちまえばいい。

なんか言われた全部オレの名前を使ってくれ。あいつに脅されたんだと。

 


オレはクラス1人1人に直接説得にあたりボイコットの作戦を進めた。

 

誰かが得するわけでもない、ただ大人に強烈な一撃を食らわせてやりたい。

ただその一心だった。

ガキはガキらしく大人の言うこと聞いておけって?

オレの話を一切聞かねーやつの言うことなんか聞いてられるかよ。

 

家じゃ押さえつけられ、救いなく、行き場もなくただひたすら苦痛に耐えてきたってのに学校でやっとできた居場所まで取り上げられるなら戦うしかない、主張すべきだと思ったんだよ。

オレは幼少期にクソみたいな野郎のお陰で何度も部屋を叩きだされてきたんだ、これ以上取り上げられるのはごめんだった。

それに11歳ともなりゃもう黙ってられるほど馬鹿じゃねえ。一歩間違えりゃ人だって殺せる歳だぜ?

 

ボイコット決行当日、学校に行くふりをして待ち合わせ場所に指定したオレ達がたまに秘密基地として使ってた廃工場に待っているとクラスの連中が1人、また1人とやってきた。

 

総勢18人クラスは30人だから半分以上が来てくれた。

始めて学校をサボる。

なんだかいけないことをしてるってだけでガキの頃はワクワクするもんだろ?

ましてやみんな仲良しのクラスのメンバーが揃ってるわけだから遠足にでも来たよう気分でみんなハイになってた。

 

秘密基地でワイワイやってると担任と別の先生2人が基地内にやってきた。

 


「お前ら学校も行かずに何やってるんだ!」

 

近所の人が学校へ通報したのか僅か数時間のボイコットは幕を閉じた。

しかし、オレにとっては満足のいく結果だったね。

賛同者18人は上出来だろう?

 

クラス全員とみんなの親全員が招集され緊急でこの問題についての話し合いが催された。

 

「全てオレが仕組んだことです。クラスのみんなは悪くないです、先生が嫌いで困らせたくてやりました。」

 

素直に答えてやった。

こんなことは前代未聞だと大人たちはザワつき、ゴミでもみるような蔑んだ目つきでオレに視線を向けたわけだが、何だか笑えたね。

奴らからすりゃうちの子を巻き込みやがってって疑いもせず思ってるわけだろ?マジな話、チョロい奴らだなって思ったよ。

一方で母は怒り心頭で今にも殴りかかりそうな雰囲気だった。

一言で言えば鬼の形相ってやつだ。

 


無言のまま家に着き、部屋に入った瞬間、母から布団叩きで全力で頭を殴られた。

 

地面に横になり亀のように丸まって体を守ろうとするとその上から布団叩きが折れるまで何回も何回も全力で殴られる。

 


「恥をかかせやがって!何でてめえはじっとしてられないんだ!死ね!死んじまえ!キチガイが!お前なんか産まれてこなきゃよかったんだよ!」

 


こんなものはもはや慣れっこでこれまで何百と繰り返してきたことだ。

早く終わらないかな?とかそんなことを冷静に考えていたような気がする。

 


“産まれてこなきゃよかった”

てめえで放り出しといて、なんて勝手な言い分なんだろうな。

こっちはいつ頼んだんだよ?

 


うちの家族は誰一人としてオレの行動を理解できなかった。

兄貴は大人しいのに対してオレは常にトラブルばかり起こすもんだから余計にだろう。

母はこの時期くらいから真剣に悩んでたんじゃねえか?

もう暴力だけじゃ歯止めがきかなくなってきたし、口論になってもオレが言い負かす時も増えてきた。

今を思えばこの時から家を追い出されるカウントダウンが始まってたんだろうな。

 

 

 

翌日、アザだらけで痛む背中をさすりながら学校へ行くとクラスメートに労いの言葉をかけられた。

 


「昨日大丈夫だった?」

 


「余裕だぜ、そんなことよりみんなも怒られたんじゃないか?」

 


「怒られたけど楽しかったから平気!」

 


みんなを巻き込んじまった手前、後ろめたさが少なからずあっただけにホッとした。

 


一方、担任の出っ歯は意気消沈としており覇気は消え失せ明らかに様子がおかしかった。

程なくして出っ歯は学校を去った。

どっかに飛ばされたのか、自主的に辞めたのかどうかはよく覚えてないがとにかく奴はオレ達の前から去った。

 


ざまあみやがれ!

クラスの連中の中には”罪悪感”を感じた奴も少なくなかったが、オレはこの勝利に喜んだよ。

 


オレのようなガキがいることを奴は知らなかった、いや知ろうとすらしなかった。

そもそも奴はオレがどんな人間かなんてことすら興味もなかった。

バカめ、オレ達ガキが牧場でメェメェ泣く檻の中の子羊だと思ったか?

犬に追いかけられようが立ち向かえる”意思”はあるんだよ。

 


“わかってる”って面した大人をギャフンと言わせるのは最高に愉快だったね。

何が”仰げば尊し、我が師の恩”だよ。

歳を取ってりゃ無条件で敬えなんてふざけたシステムが許されるわけねえだろ。

 


ーオッサンになって更に強く思うことだが、無駄に40年過ごしてきたような奴らなんかより濃密な20年を過ごしてきた若者の方に敬意を表すべきだと思うね。

余りにもつまらない大人が増え過ぎた。そいつらときたら、てめえは空っぽの癖に若いやつはどうのこうのとかぬかすんだよ。

帰ってネットのエロ動画でシコってるような奴らが笑わせるぜ。ー

 


全てやりきったオレは絶好調で完全に大人を舐めきってた。

大人なんか怖かねえ、ムカついたらやり返してやるぜ。

“子供という責任能力のない立場を利用してしまえば、最後はオレ達以外の大人が責任を取らされる。”

これを学んじまったガキは最低最悪で、”先生”とやらには徹底的に嫌われた。

オレは学校1の嫌なガキに変貌した。

暴力でもダメ、言ってきかせてもダメ。なら放っておけって感じだろう。

ところが翌年、6年生になったとき、人生最大の恩師であり、じいさんとならぶ数少ない”信頼できる大人”小川先生と出会うことになる。

オレの人生の指標となるべきあの恩師と…

Kids in the city

「よう、一緒に東京に行きたいか?」

小学4年生の夏休みのある日にじいさんにいきなり言われた。

 

オレは二つ返事で

「行きたい!いつ行く?」

欲しいものをねだっても何も買ってくれたこともねえじじいだが、たまーに遠くへ連れ出してくれるのがじじいのいいところだった。

しかもじじいにしちゃ珍しく山でも川でも海でもなく大都会東京。

見たことない風景、見たいことない人々、これはワクワクドキドキの大冒険だろう。

 

「兄貴も一緒に行く?」

 

「いや、オレはいい…」

 

兄貴はオレとは真逆の性格で、知らない土地や新しいことをするのが怖いと感じてしまう”前例が無いのでできません”と平然と言ってしまえる典型的な日本人気質ってやつが邪魔をしてるタイプだった。

馬鹿め、経験しなきゃ何も始まらねえよ。人生は短いんだぜ?悩んでる暇なんかあるかよ。

 

ー兄貴は母親への愛情が欲しいがあまりに自分らしさを全て捨てた、奴の退屈な人生そこから始まった。

大人に気に入られたいが為にどうやったら気に入られるか、どうやって立ち回ればいいか、そんなことばかり考えてた。結局そのお陰で一生涯続く親友もできず趣味も持てず、個性ってものをガキ時分にあっさりと捨てちまった。自分では何が良くて何が悪いのか、何が好きで何か嫌いか判断できないのさ。

他人に合わせなきゃ何もできない空っぽの人生を選ぶなんて不幸としか言いようがない。ー

 

あの頃の東京って言えばクソ田舎育ちのオレから言わせりゃ外国へ行くようなもんだ。テレビや雑誌の世界の話、まるで絵空事で現実にあるって感じしなかったな。

目的はよくわからなかったし、じじいも何しにいくか一々説明しなかった。

大体じじいいはつも後になって目的を言うんだよ。

“回りくどいことは抜きだ、行って見りゃわかんだろ?”こんな調子さ。

 


ダイナマイツの”トンネル天国”さながらートンネル抜けてオンボロ列車で繰り出そうーってな具合でじいさんと二人で2時間半の小旅行。ガキの2時間半っていやあ5時間にも感じるだろ?オレにとっちゃ旅立ちって感じだった。

 

池袋に着いて、真っ先に確か東口を出たたっけな?今は無き”さくらや”かなんかを見て衝撃を受けたの覚えてる。

それから見渡す限り見たこともない高さのビル郡!蟻みてえにゾロゾロと押し寄せる人の波!山も川も、鳥のさえずりも虫の声も、土もない!

なんだこの世界は?!

 

「じいちゃん、今日は祭りかなんかなの?」なんて間抜けな質問しちまったよ。

オレの住んでる地域とはまるっきり別世界!ロアルド・ダールの”夢のチョコレート工場”もしくは不思議の国のアリスの世界にでも迷い込んだ気分だ。

 

しばらく駅の前で待っていると人相のあまりよろしくない小汚いオッサンがフラフラと寄ってきて

 

「よう、久しぶり!」

意気揚々とその”小汚いオッサン”はじいさんに話かけた。

 

何やらじいさんの古い知り合いらしく車で迎えに来てくれた。

オレ達が車に乗り込むとそのオッサンは「せがれか?」

とじいさんに聞いてた。

 

このやり取りは何百と聞いてきた気がする。どういうわけかじいさんとオレはしょっちゅう親子と間違われてた。

オレも今や年齢不詳なんて言われるようになったが、じいさんもまた常に年齢不詳だった。

成人して以降“デニムを一切身につけない主義”になったことを含め血筋ってやつかもな。

 

その親切で小汚い運転手に目をやると左手の指が二本なくてさ、おいおい、マジかよ!このオッサンヤクザじゃねえか?

 

じじいの”東京時代”に何があったかは知らねえが、交友関係はかなり広かったんだろうなと容易に想像つく。

家庭も持ってない、”日本人の皮”を被ったあの頃のじじいは本物の自由人だっただろうよ。

 

ー自由と一口に言っても”Freedom”と”Liberty “では大きく意味が異なる。じいさんは間違いなく前者であり、オレの人生観における自由もfreedomで、後者はヒッピー臭くてナンセンスだ。

あのじじいを間近で見て育ったオレはカウンターカルチャー世代の連中が言う自由というのが酷く胡散臭いものに感じるようになった。反体制、自由への闘争、それも悪かないがじじいは明らかにその自由とは違った。奴はオレが出会った中で間違いなく一番のアナーキストだった。ー

 

オレ達は飯でも食うかと上野で降りた。これがまた別世界の光景で衝撃だったな。30年前の上野といえば駅前は鳩のフンだらけ、道は汚ねえし今とは比べものにならない数の乞食と上野独特の臭いを放っていた。

池袋と比べると信じられないくらい汚くて同じ東京とは思えないほどだ。

 

じいさんは歩きながら珍しく昔話をしてくれたっけ。

まあ、ほとんどが女絡みの話しだった気がするが楽しそうな顔をよく覚えてるよ。

どうやらじいさんは台東区に住んでて、浅草上野近辺はじいさんの青春時代の街だったらしく、毎日の様に東京の”悪たれ達”と悪さしてたらしい。

その頃一緒にいたじじいの兄貴はヒロポン売りをするブラックマーケットの住民で、恐らくじいさんも付き合わされてたに違いなかった。

ーじじいの兄はオレが生まれる前にオーヴァードーズで死んじまったが、母親は小学生の頃、伯父さんが注射器でなにやら怪しげなもんを腕に打ってるところを何度も目撃したらしい。

曰く、真っ黒いロングコートを着たカッコイイ足長おじさんだったらしいぜ。いかにウチが狂ってるのかよくわかるエピソードだよな。ー

 

 

 

「お前は間違っても愚連隊になんか入るなよ。」

 

この時じじいはこんなことを言っていて、その表情にはどこか後悔の念みたいなものが感じられた。きっと”何か”あったんだろう。人には言えねえ”何か”がな。

何も聞かなかったよ。

そりゃあ聞くだけ野暮ってもんだ。

感じ取ったのならそれでいい、

じじいとオレの関係はそんな感じだ。

 

次に行ったのは浅草だった。

観光といえば誰もが浅草寺に行くだろ?オレだって海外の連中連れてぐときは浅草寺なんだが、じじいは寺なんかどうでもいいってなもんでさ、真っ先によくわかんねえ居酒屋に行ったんだよ、その時にスゲー強烈だったのが当時あった場外馬券場近辺。

真昼間っから酔っ払って汚ねえオッサン共がどなり散らしてんだよ。

ありゃあ田舎のガキには強烈だったぜ。

 

ロッキー1のフィラデルフィアみてえなまさにスラムを絵に描いたような光景で、上野も凄かったが浅草も凄まじいインパクトだった。

 

ーあれから30年後にまさかオレ自身があの強烈な酔っ払い達と同じように酔っ払って、浅草で騒いで飲み屋を追い出されるようになるとはこの頃は夢にも思わなかったがー

 

居酒屋に行くと一人、また一人とじいさんの昔の仲間達が来て談笑が始まった。金持ち風の人もいれば、柿の腐ったような酒臭えじじいもいりゃ、いかついおっかねえおじさんもいた(実はそのおじさんは青汁のCMでおなじみの某役者さんだったらしい!)

 

「それで、今日は何しにわざわざ東京に来たんだ?」

 

「久々に姉ちゃん会いに来たんだよ。」

 

待てよ…じいさんに姉なんかいたか?

オレがその頃知る限り、オーバードーズで亡くなったじいさんの兄、そして”虎次郎”って名前の更に上の長男がいてその人は会ったことある。

 

ー 漢字一文字違うがその名を聞いて誰もが”男はつらいよ”の寅さんを想像するだろ?ところがウチの”虎さん”はユリゲラーを禿げにした感じで、あの寅さんとは似ても似つかねえスプーン曲げでも出来そうな顔立ちなんだよ。

そのせいかウチは一家でユリゲラーのファンだった。オレの伯母さん(母の妹)なんてユリゲラー初めて見たとき虎さんを思い出して涙すら流したくらいさ。マジでそっくりなもんだから親戚かなんかかと思ったもんな。ー

 


まだ知らない、会ったことない親戚がいたのか…?しかも東京に。

2時間ちょっとの”飲み会”を終えたあと、オレ達は北千住に向かった。

そこには一軒家があり、何やら家族で住んでいる生活感を漂わせてた。

じじいがインターフォンを押すと、ガチャっと扉が開き「いらっしゃい!」と元気のいい声とともに見たこともないおばさんが現れた。

 

歳はじいさんくらい、全身真っ黒いダボっとした司祭みてえな服、胸元には六芒星のネックレスが輝いていた。

目元はパッチリ、鼻は細長く高くてじいさんに似ていた。

これがじじいの姉さんか…??

 

リビングに通されると開口一番

「この子あんたにそっくりねえ、きっと女泣かせの子になるよ。」とかなんとか。(残念ながら女の子にモテた試しはないが)

 


不思議な雰囲気の人で何だか異世界からやって来た、オレからしたらまるっきり異星人って感じだった。

 

「何か辛いことでもあるのかい?」なんて唐突に聞かれたりしてさ、どんな顔して突っ立てたのか心配になるほどヤバい表情だったのか、それはよくわからんが何となく彼女には感じるものがあったのかもな。

オレは不気味なガキだと思われることが多かったが、おばさんとオレはまるで昔から知ってたかのような、やはり他人では無いという感覚がお互いにあったような気がする。

 

ビリーホリデイとかあの辺の古い曲かけながら話してさ、おばさんの作ったパンプキンスープとかベーグルをご馳走になったっけな。

何だか本当に外国に来たような気分だったぜ。

 

おばさんの左手の中指にはスゲーカッコいいスパイダーのタトゥーが入っててさ、オレはそいつが凄い好きだったな。「おばさんは蜘蛛が好きなの?」って聞いたんだよ。

 


そしたらおばさん

 

「蜘蛛をよく見てごらん。小さい体で自分で糸を紡で、身を守り、縄張りを作って獲物を捕らえるの。何て頭が良くて勇敢な生き物だろうね。」なんてことを言ってた。

じじいと同じく”生き物から学べ”だ。じじいの兄弟達はそうやって成長した人達だったのかもしれない。

日本ではない”どこかの国”で。

 

何故、じじいがオレを東京へ連れて行ったか真意はわからないが、しかし、今になって思えば、あれはオレにとって自身のルーツを知る旅だったのかもな。

 

オレはこの数年後、あの奇妙な六芒星、蜘蛛のタトゥーの本当の意味を知る。

 

…うちはユダヤ教徒だった。